』と書いた瓦斯燈《ガスとう》が一道の光を放つてるヂヤないか、アヽ此の戸締もせぬ自由なる家の裡《うち》に、彼《か》の燃ゆるが如き憂国愛民の情熱を抱《いだい》て先生が、暫《し》ばしの夢に息《やす》んで居《ゐ》られるかと思へば、君、其の細きランプの光が僕の胸中の悪念を一字々々に読み揚げる様に畏《おそ》れるのだ」
「一寸お待ちなせエ、戸締の無《ね》い家たア随分不用心なものだ、何《ど》れ程貧乏なのか知らねいが」と彼の剽軽《へうきん》なる都々逸《どゝいつ》の名人は冷罵《れいば》す、
「君等に大人《たいじん》の心が了《わか》つてたまるものか」と村井は赫《くわつ》と一睨《いちげい》せり「泥棒の用心するのは、必竟《つまり》自分に泥棒|根性《こんじやう》があるからだ、世に悪人なるものなしと云ふのが先生の宗教だ、家屋の目的は雨露《うろ》を凌《しの》ぐので、人を拒《ふせ》ぐのでないと云ふのが先生の哲学だ、戸締なき家と云ふことが、先生の共産主義の立派な証拠ぢやないか」
「キヨウサンシユギつて云ふのは一体何のことかネ」と剽軽男《へうきんをとこ》は問ふ、
 村井は五月蝿《うるさい》と云ひげに眉を顰《ひそ》めしが「そりや、其のあれだ、手短に言へば皆ンなで働いて皆ンなで用《つか》ふのだ、誰の物、彼の物なんて、そんな差別は立てないのだ――」
「ヘエー其奴《そいつ》ア便利だ、電車の三銭どころの話ヂヤねいや」
 頭を台湾坊主に食はれたる他の学生、帽子を以て腰掛を叩《た》きつゝ「だが、我輩は常に篠田さんが何故無妻なのかを疑ふよ」
 突然異様の新議案に羽山は真面目《まじめ》に首を傾けつ「何でも先生、亜米利加《アメリカ》で苦学して居た時に、雇主《やとひぬし》の令嬢に失恋したとか云ふことだ、先生の議論の極端過ぎるのも其の結果ヂヤ無いか知ラ」村井は首打ち振りつ、「僕は必ず社会革新の為に、一身の歓楽を犠牲にせられたのだと思ふ」
 時に例の剽軽男《へうきんをとこ》、ニユーと首を延して声を低めつ「嬶《かゝあ》も矢ツ張り共産主義ツた様な一件ヂヤ無《ね》いかナ」
 一座思はずワアツとばかりに腹を抱へぬ、鵜川老人は秘蔵の入歯を吹き飛ばせり、折から矢部《やべ》と云ふ発送係の男、頓驚《とんきやう》なる声を振り立てて、新聞|出来《しゆつたい》を報ぜしにぞ「其れツ」と一同先きを争うて走《は》せ出だせり、村井のみ悠々《いう/\》として最後に室《しつ》を出《いで》て行けり、

     三の一

「先生、在《い》らつしやいますか」と大きなる風呂敷包《ふろしきづつみ》を抱へて篠田長二の台所に訪れたるは、五十の阪を越したりとは見ゆれど、ドコやら若々とせる一寸《ちよいと》品の良き老女なり、男世帯なる篠田家に在りての玄関番たり、大宰相たり、大膳太夫《だいぜんのたいふ》たる書生の大和《おほわ》一郎が、白の前垂を胸高《むなだか》に結びて、今しも朝餐《あさげ》の後始末なるに、「おヤ、まア大和さん、御苦労様ですこと――先生は在《い》らつしやいますか」
 松が枝の如きたくましき腕を伸《の》べて茶碗洗ひつゝありし大和は、五分刈の頭、徐《おもむ》ろに擡《もた》げて鉄縁の近眼鏡《めがね》越《ごし》に打ちながめつ「あア、老女《おば》さんですか、大層早いですなア――先生は後圃《うら》で御運動でせウ、何か御用ですか」
「なにネ、先生と貴郎《あなた》の衣服《おめし》を持つて来ましたの、皆さんの所から纏《まと》まらなかつたものですから、大層遅くなりましてネ、――此頃は朝晩めつきり冷《ひや》つきますから、定めて御困りなすつたでせうネ」
「ハヽヽヽ僕も先生も未《ま》だ夏です、では其の風呂敷の中に我家の秋が包まれて居るんですか、どうも有難ウ」
「大和さん、男は礼など言ふものぢやありません、皆さんが喜んで張つたり縫つたり、仕事して下ださるんですから」
「しかし老女《おば》さん、そりや先生の為めにでせう、僕は御礼申さにやなりませんよ」
「まア、貴郎《あなた》は今時の書生さんの様でもないのネ」
 目を挙げて見れば、遠く連《つらな》れる高輪白金《たかなわしろかね》の高台には樹々の梢《こずえ》既《すで》にヤヽ黄を帯びて朝日に匂ひ、近く打ち続く後圃《こうほ》の松林には未《ま》だ虫の声々残りて宛《さ》ながら夜の宿とも謂《い》ひつべし、碧空《へきくう》澄める所には白雲高く飛んで何処《いづこ》に行くを知らず、金風《きんぷう》そよと渡る庭の面《おも》には、葉末の露もろくも散りて空しく地《つち》に玉砕す、秋のあはれは雁《かり》鳴きわたる月前の半夜ばかりかは、高朗の気|骨《ほね》に徹《とほ》り清幽の情肉に浸む朝《あした》の趣こそ比ぶるに物なけれ、今しも仰《あふい》で彼の天成の大画《たいぐわ》に双眸《さふぼう》を放ち、俯《ふ》して此の自然の妙詩に隻耳《せきじ》を傾
前へ 次へ
全74ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング