座粛然たり、
「だから貴様達は馬鹿だと云ふんだ」突如落雷の如き怒罵《どば》の声は一隅より起れり、衆目《しゆうもく》驚いて之に注《そゝ》げば、未《いま》だ廿歳前《はたちぜん》らしき金鈕《きんボタン》の書生、黙誦《もくじゆ》しつゝありし洋書を握り固めて、突ツ立てる儘《まゝ》鋭き眼に見廻はし居たり、漆黒《しつこく》なる五分刈の頭髪燈火に映じて針かとも見ゆ、彼は一座|怪訝《くわいが》の面《おもて》をギロリとばかり睨《にら》み返へせり「君等は苟《いやしく》も同胞新聞の配達人ぢやないか、新聞紙は紙と活字と記者と職工とにて出来るものぢやない、我等配達人も亦《ま》た実に之を成立せしめる重要なる職分を帯《おび》て居るのである、然《しか》るに君等は我が同胞新聞の社会に存在する理由、否《い》な、存在せしめねばならぬ理由をさへ知らないとは、何たる間抜けだ、……人生の目的がわからぬとは何だ、――神も仏も無いかとは何だ、其の疑問を解きたいばかりに、同胞新聞はこゝに建設せられたのぢやないか、吾々は世の酔夢《すゐむ》に覚醒を与へんが為めに深夜、彼等の枕頭《ちんとう》に之を送達するのぢやないか、――馬鹿ツ」彼は胸を抑《おさ》へ、情を呑《の》みて、又其唇を開けり「君等には篠田主筆の心が知れないか、先生が……先生が貧苦を忍び、侮辱を忍び、迫害を忍び、年歯《ねんし》三十、尚《なほ》独身生活を守《まもつ》て社会主義を唱導せらるゝ血と涙とが見えないか――」

     二の二

「君、さう泣くな、村井」とポンと肩を叩《たゝ》いて宥《なだ》めたるは、同じく苦学の配達人、年は村井と云へるに一ツ二ツも兄ならんか、「述懐は一種の慰藉《ゐしや》なりサ、人誰か愚痴なからんやダ、君とても口にこそ雄《えら》いことを吐くが、雄いことを吐くだけ腹の底には不平が、渦《うづ》を捲《ま》いて居るんだらう」
 少年村井も首肯《うなづ》きつ、「ウム、羽山、まあ、さうだ」
「それ見イ、僕は是れで三年配達を遣《や》つてるが、肩は曲がる、血色は減《な》くなる、記憶力は衰へる、僕はツクヅク夜業の不衛生――と云ふよりも寧《むし》ろ一個の罪悪であることを思ふよ、天は万物《ばんもつ》に安眠の牀《とこ》を与へんが為めに夜テフ天鵞絨《びろうど》の幔幕《まんまく》を下《お》ろし給ふぢやないか、然るに其時間に労働する、即《すなは》ち天意を犯すのだらう、看給《みたま》へ、夜中の労働――売淫、窃盗、賭博、巡査――巡査も剣を握つて厳《いか》めしく立つては居るが、流石《さすが》に心は眠つて居るよ、其間を肩に重き包を引ツ掛けて駆け歩くのが、アヽ実に我等新聞配達人様だ、オイ村井君、君の崇拝する篠田先生も紡績女工の夜業などには、大分《だいぶ》八《や》ヶ|間敷《ましく》鋭鋒《えいほう》を向けられるが、新聞配達の夜業はドウしたもんだイ、他《ひと》の目に在《あ》る塵を算《かぞ》へて己《おのれ》の目に在る梁木《うつばり》を御存《ごぞんじ》ないのか、矢ツ張り、耶蘇《ヤソ》教徒婦人ばかりを博愛しツてなわけか、ハヽヽヽヽヽ」
「是《こ》りや羽山さん、出来ました」「村井さん如何《いかが》です」「ハヽヽヽヽヽ」
 隣れる室の閾《しきゐ》に近く此方《こなた》に背を見せて、地方行の新聞に帯封施しつゝある鵜川《うかは》と言へる老人、ヤヲら振り返りつ「アハヽ村井さん、大分痛手を負ひましたナ、が、御安心なさい、此頃も午餐《ひる》の卓《つくゑ》で、主筆さんが社長さんと其の話して居《を》られましたよ」
「ドウだ羽山、恐れ入つたらう」と村井は雲を破れる朝日の如く笑ましげに、例の鋭き眼《まなこ》を輝やかしつ「僕は僕の配達区域に麻布本村町《あざぶほんむらちやう》の含まれてることを感謝するよ、僕だツて雨の夜、雪の夜、霙《みぞれ》降る風の夜などは疳癪《かんしやく》も起るサ、華族だの富豪だのツて愚妄《ぐまう》奸悪《かんあく》の輩《はい》が、塀《へい》を高くし門を固めて暖き夢に耽《ふけ》つて居るのを見ては、暗黒の空を睨《にらん》で皇天の不公平――ぢやない其の卑劣を痛罵《つうば》したくなるンだ、特《こと》に近来仙台阪の中腹に三菱の奴が、婿《むこ》の松方何とか云ふ奴の為に煉瓦《れんぐわ》の建築を創《はじめ》たのだ、僕は其前を通る毎《たび》に、オヽ国民の膏血《かうけつ》を私《わたくし》せる赤き煉瓦の家よ、汝が其|礎《いしずえ》の一つだに遺《のこ》らざる時の来《きた》ることを思へよと言つて呪《のろつ》てやるンだ、けれどネ羽山、それを上つて今度は薬園阪《やくゑんざか》の方へ下つて行く時に、僕の悩める暗き心は忽《たちま》ち天来の光明に接するのだ」
 羽山は笑ひつゝ喙《くちばし》を容《い》れぬ「金貨の一つも拾つたと云ふのか」
「馬鹿言へ、古き槻《けやき》が巨人の腕を張つた様に茂つてる陰に『篠田
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