君愛国と言つたやうな流行の看板を懸《か》けて行くのサ」
 剛造はやをら立ち上がりつ、
「長谷川君、伝道なども少こし融通《ゆうづう》の利《き》くやうに頼みますよ、今も言ふ通り梅子の結婚談で心配して居るんだが、信仰が如何《どう》の、品行が如何のと、頑固《ぐわんこ》なことばかり言うて困らせ切つて仕舞ふのだ、耶蘇《ヤソ》でも仏でも無宗教でも構ふことは無い、男は必竟《つまり》人物にあるのだ、さうぢや無いか、一夫一婦なんてことは、日本では未《ま》だ時期が早いよ――ぢや、君、今の篠田の一件を忘れないやうに、是《こ》れで失敬する、家内《かない》の室ででも悠然《ゆつくり》遊んで行き給へ」
 莨《たばこ》の煙|一抹《いちまつ》を戸口に残してスラリ/\と剛造は去りぬ、
 牧師は独《ひと》り思案の腕を組みつ、

     二の一

 夜は十時を過ぎぬ、二等煉瓦の巷《ちまた》には行人既に稀《まれ》なるも、同胞新聞社の工場には今や目も眩《ま》ふばかりに運転する機械の響|囂々《がう/\》として、明日《あす》の新聞を吐き出だしつゝあり、板敷の広き一室、瓦斯《ガス》の火|急《せは》し気《げ》に燃ゆる下に寄り集《つど》ふたる配達夫の十四五名、若きあり、中年あり、稍々《やゝ》老境に近づきたるあり、剥《はげ》たる飛白《かすり》に繩の様なる角帯せるもの何がし学校の記章打つたる帽子、阿弥陀《あみだ》に戴《いただ》けるもの、或は椅子に掛かり、或は床《とこ》に踞《すわ》り、或は立つて徘徊《はいくわい》す、印刷|出来《しゆつたい》を待つ間《ま》の徒然《つれづれ》に、機械の音と相競うての高談放笑なかなかに賑《にぎ》はし、
 三十五六の剽軽《へうきん》らしき男、若き人達の面白き談話に耳傾けて居たりしが、やがてポンと煙管《きせる》を払ひて「書生さん方、お羨《うらや》ましいことだ、同し配達でもお前さん達は修業金の補充《たしまい》に稼ぐだが、私抔《わたしなど》を御覧なせい、御舘《おやかた》へ帰つて見りや、豚小屋から臀《しり》の来さうな中に御台所《みだいどころ》、御公達《ごきんだち》、御姫様方と御四方《およつかた》まで御控へめさる、是《これ》で私《わし》が脚気《かつけ》の一つも踏み出したが最後、平家の一門同じ枕に討死《うちじに》ツてつた様な幕サ、考へて見りや何の為めに生れて来たんだか、一向《いつかう》合点《がてん》が行かねエやうだ」
 踞《しやが》んで居たる四十|恰好《かつかう》の男「さうよ、でも此の新聞社などは少《す》こし毛色が変はつてるから、貧乏な代りに余り非道も遣《や》らねいが、外の社と来たら驚いちまはア、さんざん腹こき使つた上句《あげく》、体が悪くなつたからつて逐《お》つ払ひよ、チヨツ、誰の為めに体が悪くなつたんだ」
 フカリ/\烟草《たばこ》を吹かし居たる柔順《おとなし》やかなる爺《おやじ》「年増《としま》しに世の中がヒドくなるよ、俺の隣に砲兵工廠へ通ふ男があつたが、――なんでも相当に給料も取つてるらしかつたが、其れが出しぬけにお払函《はらひばこ》サ、外国から新発明の機械が来て、女でる間に合ふからだと云ふことだ」
 彼《か》の剽軽《へうきん》なる男「フム、ぢやア逐々《おひ/\》女が稼《かせ》いで野郎は男妾《をとこめかけ》ツたことになるんだネ、難有《ありがた》い――そこで一つ都々逸《どゝいつ》が浮んだ『私《わたし》ヤ工場で黒汗流がし、主《ぬし》は留守番、子守歌』は如何《どう》だ、イヤ又た一つ出来た、今度は男の心意気よ『工場の夜業で嬶《かゝあ》が遅い、餓鬼《がき》はむづかる、飯《めし》や冷える』ハヽヽヽ是れぢや矢ツ張り遣《や》り切れねい」
「所が、お前《めい》、女房は産後の肥立《ひだち》が良くねえので床に就いたきり、野郎は車でも挽《ひ》かうツて見た所で、電車が通じたので其れも駄目よ、彼此《かれこれ》する中に工場で萌《きざ》した肺病が悪くなつて血を吐く、詮方《せうこと》なしに煙草の会社へ通つて居た十一になる娘を芳原《よしはら》へ十両で売《うつ》て、其《それ》も手数の何のツて途中へ消えて、手に入つたのは僅《たつ》たお前、六両ぢやねいか、焼石に水どころの話ぢやねエ、其処《そこ》で野郎も考へたと見える、寧《いつ》そ俺と云ふものが無かつたら、女房も赤児《あかんぼ》も世間の情の陰で却《かへつ》て露の命を継《つな》ぐことも出来ようツてんで、近所合壁へ立派に依頼状《たのみじやう》を遺《のこ》して、神田川で土左衛門よ」
「成程そんな新聞を見た覚《おぼえ》もある」と誰やらが言ふ、
「あんな大した腕持つてる律義《りちぎ》な職人でせエ此の始末だ、さうかと思《お》もや、悪い泥棒見たいな奴が立身して、妾《めかけ》置いて車で通つて居る、神も仏もあつたもんぢやねエ」
 秋の夜の更《ふ》け行く風、肌に浸《し》みて一
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