チルスを入れて置かれては、第一我輩の名誉に関することで、又た彼《あ》の様な其筋で筆頭の注意人物を容《い》れ置くと云ふのは、教会の為めにも不得策だらう、彼様《あんな》乱暴な人物も耶蘇教信者だと云ふので、無智漢の信用を繋《つな》いで居《ゐ》るのだから」

     一の三

 牧師は僅《わづか》に頭を擡《もた》げぬ、
「御立腹の段は誠に御尤《ごもつとも》で、私《わたくし》に於ても一々御同感で御座りまする、が、只《た》だ何分にも篠田が青年等の中心になつて居りまするので」
「さ、其のことである」と、剛造は吻《くちばし》を容《い》れぬ、「危険と言ふのは其処である、卵の如き青年の頭脳へ、杜会主義など打ち込んで如何《どう》する積《つもり》であるか、ツイ先頃も私《わし》が子女等《こどもら》の室を見廻はると、長男《せがれ》の剛一が急いで読んで居た物を隠すから、無理に取り上げて見ると、篠田の書いた『社会革新論』とか云ふのだ、長谷川君、少しは考へて貰ひたいものだ、教会へは及ばずながら多少の金を取られて居《を》る、而《さう》して家庭《かない》へ禍殃《わざはひ》の種子《たね》を播《ま》かれでも仕《し》ようものなら、我慢が出来るか如何《どう》だらう」
 牧師は頻《しき》りに額の汗を拭《ぬぐ》ひつ、
「御尤《ごもつとも》で御座りまする」
「元来を言へば長谷川君、初め篠田如き者を迂濶《うくわつ》に入会を許したのが君の失策である、如何《どう》だ、彼《あ》の新聞の遣《や》り口《くち》は、政府だの資産あるものだのと見ると、事の善悪に拘《かゝは》らず罵詈讒謗《ばりざんばう》の毒筆を弄《もてあそ》ぶのだ、彼奴《きやつ》が帰朝《かへ》つて、彼の新聞に入つて以来、僅《わづ》か二三年の間に彼の毒筆に負傷《けが》したものが何人とも知れないのだ、私《わし》なども昨年の春、毒筆を向けられたが――彼奴等《きやつら》の言ふ様な人道とか何とか、其様《そんな》単純なことで坑夫等の統御が出来るものか、少しは考へて見るが可《い》いのだ、石炭坑夫なんてものは、熊か狼だ、其れを人間扱ひにせよと云ふのが間違つて居るぢや無いか、彼《あ》の時にも君に放逐《はうちく》する様に注意したのだが、自分のことで彼此《かれこれ》云ふのは、世間の同情を失ふ恐《おそれ》があるからと君が言ふので、其れも一理あると私《わし》も辛棒したのだ、今度は、君、少しも心配するに及ぶまい、日露戦争に反対するのだから、即《すなは》ち売国奴《ばいこくど》と言ふべきものでは無いか」
 牧師は額押へて謹聴し居たりしが、やがて少しく頭を揚げつ「――一々御同感で御座りまするので――が、何分にも御承知の如き尋常《なみ/\》ならぬ男なので御座りまするから、執事等も陰では皆な苦慮致し居りまするものの、誰も言ひ出し兼ねて居るので御座ります――如何《いかが》で御座りませう、御足労ながら貴方から一言教会へ直接に御注意下さりましては、多分一同待ち望んで居ることと思はれまするので――」
「私《わし》が教会などへ行つて居《を》れると思ふか」と、剛造は牧師を睨《にら》みつ「私《わし》は体の代りに黄金《かね》を遣《や》つてある筈《はず》だ――イヤ、牧師ともあるものが左様《さやう》に優柔不断ならば、私の方にも心得がある、子女等《こどもら》も向後一切教会へは足踏みもさせないことに仕《し》よう」
「ア、山木さん、御立腹では恐れ入りまする」と、牧師は周章《あわただ》しく剛造をなだめ、
「宜《よろ》しう御座りまする、私《わたくし》も兼ねて其の心得で居りましたのですから、早速執事等とも協議の上、至急|御挨拶《ごあいさつ》に及ぶで御座りませう」
「ウム、ぢや、早速|左様《さう》云ふことに」
 剛造の面《かほ》和《やはら》ぎたるに、牧師もホとばかりに胸撫で下ろしつ、
「ツイ失念致し居りまして御座りまするが、京都育児慈善会から貴方へ厚く御礼申上げ呉れる様にと精々申して参りました、沢山《たくさん》に義揖《ぎえん》を御承諾下ださいましたので、京阪地方の富豪を説くにも誠に好都合になりましたさうで、我国でのモルガン、ロックフェラアと言《いふ》べきであらうなど、非常に貴方を称讃して寄越《よこし》まして御座りまする」
「なに、ロックフェラアか、いや、ロックフェラアも近頃の不景気では思ふ様に慈善も出来ない」と、剛造は反《そ》り返つて呵々《かゝ》と大笑せり、
 牧師も愈々《いよ/\》笑《ゑみ》傾《かたむ》け「新聞で拝見致しましたが、今回九州地方の石炭会社の同盟して露西亜《ロシヤ》へ石炭販売を禁止なされたのも、貴方《あなた》の御発意と申すことで、実業界から斯《か》かる愛国の手本が出ますると云ふのは、実に近来の快事で御座りまする」
「ハヽヽヽヽ」と剛造は一《ひ》ときは高笑ひ「商売にしてからが、矢ツ張り忠
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