ち》な言ひ草だ、嫉妬深《しつとぶか》い松本の暴論も、老実な浦和の主張で未《ま》だ決議には至らぬさうだが、其れが彼《あ》の吾妻の奸策だとは何事だ、尤《もつと》も彼奴《あいつ》、嫌《いや》な奴サ、先生の前でほヒヨコ/\頭ばかり下げて諂諛《おべつか》ばかり並べて、――誰か何時《いつ》やら、政府の狗《いぬ》ぢや無いかと注意したつけが、何《どう》も先生は既に左様《さう》と知つて居られるらしかつたよ、彼時《あのとき》の御返事を見ると――彼程《あれほど》敏慧《びんけい》な頭脳を邪路から救ひ出して遣《や》るものが無ければ、啻《ただ》に一人の兄弟を失ふのみならず社会は何程|毀損《きそん》されるかも知れないと、――先生を殺すものは――必竟《ひつきやう》先生の愛心だ――アヽ」
薬園阪《やくゑんざか》下り行く空腕車《からくるま》の音あはれに聞こゆ「ウム、車夫《くるまや》も嘸《さ》ぞ寒むからう、僕は家《うち》に居るのだけれど」大和は机の上に両手を組みつ、頭《かしら》を俯《ふ》して又た更に思案に沈む、
「本当に左様《さう》だ、先生を殺すものは先生の愛心だ、花ちやんを救ふ、すると直ぐ其れが先生に禍《わざはひ》するのだ、其れに梅子さん――何《どう》も不思議だ、何故《なぜ》社会は虚誕《きよたん》を伝へて喜ぶのだらう、が、烟《けむり》の立つ所必ず火ありとも云ふぞ、――然《し》かし僕が若し婦人ならば矢張り左様《さう》思ふかも知れない、僕が先生を斯《か》く思ふの情、是れが女性の心に宿れば恋となるのかナ――アヽ、何卒《どうか》先生に思ふ存分、腕を伸ばさして上げたいナ」
風又た吹き加はりぬ、雪の音はげし、
門戸に低く人の声す、
大和は耳を聳《そばだ》てぬ、戸を叩《たゝ》く音なり、
何人《なんぴと》の何等緊急事ならん、此の寒き雪の深夜に――大和は訝《いぶ》かりつゝ立つて戸を開きぬ、
吹き巻く雪中、門燈を背にして、黒き影一個立てり、
二十九の二
「何殿《どなた》です」と、大和《おほわ》が雪明《ゆきあかり》にすかして問ふを、門前の客は袖《そで》の雪払ひも敢《あ》へず、ヒラリとばかり飛び込めり、
東《あづま》コートに御高祖頭巾《おこそづきん》、――アヽ是《こ》れ婦人なり、
大和は眼を円《まる》くして怪しげに見つめぬ、
「大和さん」、婦人の声に、大和は愕然《がくぜん》として一歩|退《しりぞ》けり「ア、貴嬢《あなた》ですか」
「あの、御在宅でいらつしやいますか――是非御面会せねばならぬことが御座いますので」
深夜の雪道に凍《こゞ》えてや、婦人の声の打ち震《ふる》ひて聞えぬ、
「暫《しばら》くお待ちを願ひます」と、大和は急ぎ篠田の書斎へと走せぬ、
「先生――」驚愕《きやうがく》と怪訝《けげん》とに心騒げる大和の声は甚《いた》くも調子狂ひたり、
既に文書|認《したゝ》め了《おは》りし篠田は、今や聖書|繙《ひもと》きて、就寝前の祈祷《きたう》を捧げんとしつゝありしなり、
彼は静かに顧みぬ「大和君、何です」
「――只今、あの、山木の梅子さんが御光来《おいで》になりました」
「ナニ、梅子さんが――」篠田も首傾けぬ「お一人でか」
「左様《さう》です、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面会をと云ふことです」
「ウム此の雪中を御光来《おいで》は尋常のことでは有るまい、――早速に」
梅子は大和に導かれて篠田の室に入り来りぬ、肉やゝ落ちて色さへ甚《いた》く衰へて見ゆ、彼女《かれ》は言葉は無くて只《た》だ慇懃《いんぎん》に頭《かしら》を下げぬ、
「良久《しばらく》御目に掛りませぬでした」と、篠田も丁重《ていちよう》に礼を返へして、「此の吹雪《ふぶき》の深夜|御光来《おいで》下ださるとは甚《はなはだ》だ心懸《こゝろがかり》に存じます、早速承るで御座いませう」
梅子は僅《わづか》に頭《かしら》を擡《もた》げぬ「――篠田さん――私、貴所《あなた》に御逢《おあ》ひ致しまする面目が無いので御座いますけれど――今晩容易ならぬことを、耳に致しましたものですから――」
彼女《かれ》は逡巡《ためら》ひつゝ、窃《そつ》と傍《かたへ》の大和を見やりぬ、
容易ならぬことの一語に、危殆《きたい》の念|愈々《いよ/\》高まれる大和は、躊躇《ちうちよ》する梅子の様子に、必定《ひつぢやう》何等の秘密あらんと覚りつ、篠田を一瞥《いちべつ》して起たんとす、
篠田は制しぬ「何事か知りませぬが、梅子さん、少しも御懸念《ごけねん》に及びませぬ、是《こ》れは私の弟ですから」
大和は又た座りてホと吐息を漏らしぬ、
「否《い》エ、篠田さん、大和さんに御遠慮申したのでは御座いませぬが」、梅子は言はんと欲して言ひ能《あた》はざるものの如し、
「何でありまするか」と篠田は問ひぬ「何か私の一身に関係し
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