しやるでせう、私の嬉《うれ》しく思ふのは、天では神様、そして地では、剛さん、貴郎《あなた》ばかりです――」
 彼女《かれ》は忽《たちま》ち眼を閉ぢて俯《うつむ》けり「――左様《さう》ぢや無い、私は慥《たしか》に身も心も献げた尊《たふと》き丈夫《かた》が在《あ》るのです、けれど篠田さん――貴方は少しも私の心、此の涙に浸《ひた》せる我心を少しも知つては下さいません――其れを御怨《おうら》み申しは致しません、けれど何と云ふ情ない世の中でせう、此の純潔な私の恋が――左様《さう》です、純潔です、必ず一点の汚涜《をどく》もありません――貴方の為めに禍《わざはひ》の種となるのです、――篠田さん、我が夫《つま》、何卒|御赦《おゆる》し下ださいまし、貴方の博大の御心には泣いて居るのです、私は既《も》う決心致しました、私は父から全く離れました、家庭からも全く離れました、教会からも離れました、私は天の神様をのみ父とし母として、地に散在する憐《あは》れなる兄弟と、大きな家庭を作ることに覚悟致しました、そして此世を神様の教会と致します、――篠田さん、貴郎《あなた》は私の此の決心を、叱つて下ださいませんでせうねエ――」
 彼女《かれ》は恍惚《くわうこつ》として夢の如く、心に浮ぶ篠田の面影《おもかげ》に縋《すが》りて接吻せり、
「姉さん」と黄色の声して芳子は走《は》せつゝ入り来れり、
 梅子は遽然《きよぜん》我に返へりつ、「あら、芳ちやん、喫驚《びつくり》しましたよ、何《どう》なすつて」
「姉さん、私、可《い》いこと聴いたワ」芳子は姉の面《かほ》打ち眺《なが》めて笑ふ、
 梅子は又た何か面白ろからぬ我が噂《うはさ》なるべしと思へば、取り合はん心もあらず、
 去れど芳子は一向|無頓着《むとんちやく》に、大勝利を報告する将軍の如くぞ勇める「姉さん、私、今ま可《い》いことを聴いてよ、篠田さんは到頭《たうとう》縛《しば》られて、牢屋へ行きなさるんですと」
 巨砲もて打たれたらん如き驚愕《きやうがく》を、梅子は熟《じつ》と制しつ「――左様《さう》ですか――誰にお聴きなすつて――」
「今ネ、何処《どこ》からか電話で、――何でも警視庁とか云つてでしたの――報《しら》して来たんです、阿父《おとつさん》が阿母《おつかさん》に話して在《い》らしつてよ、是れで漸《やうや》く松島さんへ、お詫《わび》が出来るつて、ほんとに左様《さう》だわねエ」
「ヘエ、そして芳《よつ》ちやん、既《も》う牢屋へ行らしつたのですか」
「否《いゝ》え、明日ですつて、」
「左様《さう》ですか――」
 梅子は強《しひ》て平然と装へり、去《さ》れど制すべからざるは其顔なり、看《み》よ、其の凄《すさまじ》き蒼白《さうはく》を、芳子は稍々《やゝ》予算狂へるが如く、訝《いぶ》かしげに姉の面《かほ》見つめて、居たりしが、芳子々々と、ケタヽましく呼ぶ母の声に、飛ぶが如くに黙つて走せ行けり、
 梅子は声を呑《の》んで瞠《だう》と伏せり、

     二十九の一

 宵の雨も何時《いつ》しか雪と降り替はれり、
 麻布本村町の篠田が玄関には、深《ふ》け行く寒き夜を、大和《おほわ》一郎の尚《な》ほ兀々《こつ/\》と勉学に余念なし、雪バラ/\と窓を打ちて、吹き入る風に身を慄《ふる》はしつ「オヽ、寒い、最早《もう》何時かナ、未だ十二時にはなるまい――」
 顧《かへりみ》る台所の方《かた》には、兼吉の老母が転輾《てん/\》反側《はんそく》の気はひ聞ゆ、彼女《かれ》も此の雪の夜の物思ひに、既に枕に就《つ》きたるも、容易《たやす》くは夢の得も結ばれぬなるべし、
 篠田が書斎の奥よりは、洋紙《かみ》を走《は》しるペンの音、深夜の寂寞《せきばく》を破りて漏《も》れ来ぬ、
 大和は襟《えり》掻き合はしつ「アヽ、先生は未《ま》だお寝《やす》みにならんのか、何か書いて居らつしやる様だ、――明日の社説かナ、否《い》や、日常《いつも》お寝《やすみ》の時間に仕事なさるのだから、他《ほか》に何か急用の書き物がおありなさるのであらう、手紙かナ、平民週報の寄書かナ、ア、左様《さう》だ、露西亜《ロシヤ》の社会民主党へ贈りなさる文章に相違無い――両国の侵略主義者が嫉妬《しつと》猜忌《さいき》して兵火に訴へようとする場合に、我々同意者は相応じて世界進歩の為めに、平和の福音《ふくいん》を鼓吹《こすゐ》せねばならぬと言うて居られたから――が、先生も実にお気の毒で堪らぬ――」
 大和は瞑目《めいもく》して大息《たいそく》せり、
「――教会を除名されなすつたなどは、別段先生の損失でもなく、寧《むし》ろ教会の愚劣と偽善を表白したに過ぎないのだが、驚いたのは鍛工《かぢこう》組合の挙動だ――先生が梅子さんと結婚なさる為めに、主義を抛棄《はうき》なさるとは、何と云ふ破廉耻《はれん
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