》探偵にまで成り下つたんだから、随分|惨酷《ざんこく》なことも平気で行《や》つて来たんですが、――篠田には実に驚いたのです、社会党なんぞ、どうせ陰険な乱暴なものだと思つて這入《はひ》り込んだのだが、秘密と云ふものが殆《ほとん》ど無いのです――以前始めて社会民主党を組織するツてた時も、左様《さう》でしたよ、タシか土橋だと思ふが、彼《あ》の渡部と云ふ男の所へ出掛けて行くと、先方が却《かへつ》て歓迎して起草しかけて居た宣言書を見せて、一々講釈をされたので、社会主義ツてものは、実に可《い》いものだと感服し切つて来たが、僕も本当に左様《さう》思ひますよ、川地さん、貴官《あなた》は篠田を悪党だの何のと言ひなさるけれど、試《こゝろみ》に一度|逢《あ》つて御覧なさい、屹度《きつと》従来の誤解を慚愧《ざんき》なさるに相違ありませんよ――僕は斯《か》う云ふ好人物を毀《きずつ》けねばならぬかと思ふと、如何にも自分ながら情なくなつて、寧《いつ》そ自分の探偵と云ふことを白状して、本当の子分にして貰《もらは》うかと思つたことが、幾度《いくたび》とも知れませんよ、近来は最早《もう》怖くて堪《たま》らぬから、逢はぬやうに/\と、篠田を避けて居るんだ」
川地は大口開いてカラ/\と笑ひつ「吾妻、貴様もエライ善根《ぜんこん》があるんだナ、感心だよ」
「仮令《たとひ》斯様《かやう》になつても、未《ま》だ人間には相違無いからネ」と、吾妻は首肯《うなづ》き「然《し》かし、もう斯うなるからは、何卒《どうぞ》篠田に面《かほ》を見られない様にして貰ひたいのだが、其の論文にしても、何《どう》も不敬罪とは覚束《おぼつか》ないからナ、裁判は警視庁や内務省が為《す》るんで無いからナ――何程《どんなに》牽強付会をした所で、官吏侮辱位のものだ、二月か三月の重禁錮《ぢゆうきんこ》だ、――僕ア外国へ逃げでもしなけりや、安心が出来ませんよ」
「非常な心配だナ」と、川地は冷笑しつゝ、「其れなら我輩も一ツ善根の為めに、貴様を救《たす》けて篠田を一生|娑婆《しやば》の風に当てないやうにして遣《や》らう」
「笑談《ぜうだん》言つちやいけませんよ、何程《なんぼ》意気地の無い裁判官でも、警視庁の命令に従ひはしませんからネ」
「馬鹿だなア」と川地はポカリ煙草を喫《きつ》しつ、「裁判官は只だ法廷で、裁判するだけの仕事ぢや無《ない》か――法律なんて酌子定規《しやくしぢやうぎ》に拘泥《こうでい》して、悪党退治が出来ると思ふか――フヽム」
吾妻は暫《し》ばし川地の面《おもて》ながめ居りしが、忽如《たちまち》、蒼《あを》く化《な》りて声ひそめつ「――ぢや、又た肺病の黴菌《ばいきん》でも呑《の》まさうと云《いふ》んですか――」
川地は黙つてスイと起ちつ「吾妻、居室《ゐま》へ来給へ、一盃《いつぱい》飲まう――骨折賃も遣らうサ」
去《され》ど吾妻は悄然《せうぜん》として動きもやらず「――考へて見ると警察程、社会の安寧を壊《やぶ》るものは有りませんねエ、泥棒する奴も悪いだらうが、捉《とら》へる奴の方が尚《な》ほ悪党だ」
「社会の安寧?」と川地は苦笑しつ「何も、皆《みん》な飯の種《たね》サ」
吾妻は低声独語しぬ「飯の種、――飯の種」
二十八
大洞《おおほら》別荘の椿事《ちんじ》以来、梅子は父剛造の為めに外出を厳禁せられて、殆《ほとん》ど書斎に監禁の様《さま》なり、継母の干渉《かんせふ》劇《はげ》しければ、老婆も今は心のまゝに出入すること能《あた》はず、妹《いもと》芳子が時々来りては、父母が梅子に対する悪感情を、傲《ほこ》りがに伝達しつ、又た姉の悲哀の容態をば尾鰭《をひれ》を付けて父母に披露す、芳子は流石《さすが》にお加女《かめ》夫人の愛児なり、梅子の苦悶《くもん》を見て自ら喜び、姉を讒訴《ざんそ》して、母を喜ばしむ、只《た》だ前《ぜん》よりも一層真心を籠《こ》めて彼女《かれ》を慰め、彼女を奨《はげ》まし、唯一の楯《たて》となりて彼女を保護するものは剛一なりける、
剛一は千葉地方へ遠足に赴《おもむ》きて二三日、顔を見せざるなり、雨|蕭々《せう/\》として孤影|蓼々《れう/\》、梅子は燈下、思ひに悩んで夜の深《ふ》け行くをも知らざるなり、
「アヽ、剛さんは如何《どう》なすつたでせう、今夜《こよひ》はお帰りの日取なんだが、今頃までお帰りないのは、大方《おほかた》此の雨でお泊りのでせう、お一人なら雨や雪に頓着《とんちやく》なさる男《ひと》ぢやないけれど、お友達と御一所《ごいつしよ》では、左様《さう》もならないからネ」
彼女《かれ》は机上の置時計を見て独語せり、
「ほんたうに剛さん、私や、貴郎《あなた》に感謝してますよ、貴郎の様な男らしい男を弟《おとゝ》と呼ばせ給ふ神様は、何と云ふ恩恵《めぐみ》深くて居らつ
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