―篠田や社員の奴等に探偵と云ふことを感付かれりや為《し》なかろな」
「なアに、外の奴等は感付く所か、僕が余り篠田に接近すると云ふので、却《かへつ》て嫉妬《しつと》して居る程です、ですから僕の流言が案外社員間には成効して、陰では皆《みん》な充分に篠田を疑つて居るですがネ――」言ひ淀《よど》みたる吾妻は、側なる小卓に片肘《かたひぢ》を立てて、悩まし気に頭《かしら》を支《さゝ》へぬ、
「其れが何《どう》したと云ふのだ、篠田の方は何したと云ふのだ」
「――課長」吾妻の声は震《ふる》へり「川地さん、――然《し》かし篠田は覚《さと》つて居るらしいのです、慥《たしか》に覚つて居るらしいのです」
「けれど吾妻、覚つて居ながら、探偵を近《ちかづ》けて居る理由もなからう――特《こと》に彼云《あゝいふ》悪党が」
「所が、其れが大間違ひのです」と、吾妻は姿勢を正して吐息をつけり「川地さん、正直に言ふと、彼は偉い男ですよ、彼は慥《たしか》に僕を探偵と知つてるのです、其れで僕と差向《さしむかひ》の時には、必ず僕に説教するのです、彼は全然《まるで》坊主ですナ、其真実の言葉が、此の心の隅《すみ》から隅まで探燈《サアチ・ライト》で照らし渡る様に感じて、怖くて堪《たま》らない」
彼は瞑目《めいもく》して暫《し》ばし胸裡《きようり》の激動を制しつ「――ト云うて、貴官《あなた》の方へは、彼の罪迹《ざいせき》を何か報告せねばならぬでせう――イヤ、其様《さう》せねば貴官《あなた》の御機嫌《ごきげん》が悪いでせう――けれど実を言ふと、僕には彼の罪悪と云ふものを発見することが出来ないんですもの――」
川地の眼《まなこ》はキラリ輝けり「ぢや、吾妻、今日《こんにち》まで報告した彼奴《きやつ》の秘密は、虚事《うそ》だと云ふのか」
「――悉《ことごと》く虚報と云ふでもありませぬが――悉く真実と云ふ事も困難です――」
「ぢや、吾妻、彼奴《きやつ》が山木の嬢《むすめ》を誘惑して、其の特別財産を引き出す工夫してると云ふのは、ありや真実《ほんたう》か何《どう》だ」
「――あれは少し違つてる様でした――」
「花吉を妾にして居ると云ふのは」
「あれも――少し違つて居ります」
川地は忿怒《ふんぬ》の声荒々しく「九州炭山の同盟罷工|教唆《けうさ》も虚報と云ふのか」
「イヤ、全然《まるで》虚報と云《いふ》でもありませぬが――実は篠田は、同盟罷工に反対して、静粛なる手段を執《と》ることを熱心に勧告したのです、其の往復の書信など僕は能《よ》く知つて居ますが、けれど勢ひ已《や》むを得ないと云ふことになつたもんですから、然《しか》らば坑夫等を無惨《むざん》の失敗に終らしめてはならぬと云ふので、最も困難な兵糧方に廻つたのです、だから彼が教唆《けうさ》したと云ふのは、少こし真実に遠い様でもありますが、彼が無かつたら坑夫の同盟も、今度の労働者団結も成立つことでありませんから、彼が教唆《けうさ》したと報告したのも、結果から言へば全然虚報とは言はれぬ様にもなる次第のです」例の快弁に似もやらず、吾妻は汗を拭《ぬぐ》ひつ、弁疏《べんそ》せり、
「吾妻、全《まる》で貴様は政府を欺《あざむ》いて、我等を欺いて、機密費を盗んで居たのだ」
「けれど」と、吾妻は少しく椅子《いす》を後に退《の》け「其《そり》ヤ課長、無理ですよ、初め僕が同胞社に這入《はひ》り込んだ頃、僕は報告したぢやありませんか、外で考へると、内で見るとは全く事情が違つて、篠田と云ふ男、実に敬服すべき君子だと申上げたでせう、スルと貴官《あなた》は大変に立腹して、其様《そんな》筈《はず》が無い、何かあるに相違無い、政府の方針は飽《あ》く迄《まで》も社会党撲滅と云ふことであるから、若《も》し其に好都合な申告を為《し》ないと、今度は警察の無能と云ふんで、我々の飯の食ひ上げになる、だから何でも可《い》いから持つて来い、虚誕《うそ》を組立てて事実を織り出すのが探偵の手腕だと――」
「馬鹿ツ」
「馬鹿ぢやありません、今度も左様《さう》です、松島が負傷したに就て、軍隊や元老の方からも八釜《やかま》しく言うて来て困る、是非何とかして、篠田を引《ひ》ツ縛《くゝ》らねばならぬからと言ふんでせう――其りや成程、僕が最初篠田と山木の嬢《むすめ》と、不正な関係がある様に虚誕《うそ》を報告して置いた結果で仕方ないですが――」
川地は再び大喝せり「馬鹿ツ」
二十七の二
吾妻のワナ/\と顫《ふる》へる面《かほ》を、川地課長は冷《ひやや》かに眺《なが》めて
「其の態《ざま》は何だ、吾妻、貴様も年の若いに似合はず役に立つ男と思つて居たが、案外の臆病だナ、其れでも警察の飯を食つて居るのか」
吾妻は頭押へつゝ「――其《そり》や僕も、爺《おやぢ》の脛《すね》を食ひ荒して、斯様《こん
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