私《わし》は死にたくも死なれないよ」
 篠田は答へんすべも無し、

      *     *     *

 顧み勝ちに篠田は独《ひと》り下山《くだ》り行く、伯母が赤心一語々々に我胸を貫きつ、

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神に祈れど得も去らぬ、寂し心のなやみをば、恋てふものと伯母君の、昨日ぞ諭《さと》し玉ひたる

花の姿の美しと、乙女《をとめ》を見たる時もあれど、慕はしものと我が胸に、影をとどめしことあらず、

地上の罪の同胞《はらから》に、代る犠牲の小羊と、神の御前《みまへ》に献げたる、堅き誓《ちかひ》の我なるを、

不信の波の何時しかに、心の淵《ふち》に立ち初《そ》めて、底の濁《にごり》を揚げつらん、今日まで知らで我れ過ぎぬ、
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 汝を恋ふるばかりに、柔《やさ》しき処女の血にさへ汚《けが》れしを知らずやテフ声、忽《たちま》ち如何処《いづこ》よりか矢の如く心を射れり、山木梅子の美しき影、閉ぢたる眼前に瞭然《れうぜん》と笑めり、
「おのれ、長二ツ」と篠田は我と我が心を大喝《だいかつ》叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しつた》して、嚇《かく》とばかり眼《まなこ》を開けり、重畳《ちようでふ》たる灰色の雲破れて、武甲《ぶかふ》の高根、雪に輝く、

     二十七の一

 壕水《ほりみづ》に映《う》つる星影寒くして、松の梢《こずゑ》に風音|凄《すご》く、夜も早や十時に垂《なんな》んたり、立番の巡査さへ今は欠伸《あくび》ながらに、炉を股にして身を縮むる鍛冶橋畔《かぢけうはん》の暗路を、外套《ぐわいたう》スツポリと頭から被《かむ》りて、弓町《ゆみちやう》の方《かた》より出で来れる一黒影あり、交番の燈火にも顔を背向《そむ》けて急ぎ橋を渡りつ、土手に沿うて、トある警視庁官舎の門に没し去れり、
 彼《か》の黒影はヤガて外套を脱して、一室の扉を押せり、室内は燈火|明々《めい/\》として、未《いま》だ官服のまゝなる主人は、燃え盛る暖炉《だんろ》の側に安然と身を大椅子に投げて、針の如き頬髯《ほゝひげ》撫で廻はしつゝあり、
 扉の開かれし音に、ギロリとせる眼を其方《そなた》に転じつ「ヤア、吾妻」
 彼の黒影は同胞新聞の記者吾妻俊郎にぞありける、
 吾妻はその敏慧《びんけい》なる眼に微笑を含みつゝ、軽く黙礼せる儘、主人と相対して椅子に坐せり、
「川地課長、やうやく捜《さが》し出しましたよ」
 言ひつゝ彼は裏《うち》なるポケットより一個の紙包を取り出して、主人に渡せり「今《も》一日後れりや、屑屋《くづや》の手に渡る所なんで――大切な原稿を間違へて、反古《ほご》の中へ入れちやつたてなことで、屑籠《くづかご》を打《ぶ》ちあけさせて、一々《いち/\》択《え》り分けて、本当に酷《ひど》い目に逢《あ》ひましたよ」
 主人は黙つて其の紙包を開けり、中より出でしは皺《しわ》クチヤになれる新聞の原稿なり、彼は膝頭《ひざかしら》にて稍々《やゝ》之を押し延ばしつ、口の裡《うち》にて五六行読みもて行けり、
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……彼の主戦論者の声言する所を聞くに日露両国の衝突は、自由と擅制《せんせい》との衝突にして、又た文明と野蛮との衝突……と云ふ、吾輩|謂《おも》へらく決して然らず、是《こ》れ只《た》だ両個|擅制《せんせい》帝国の衝突のみ、両個野蛮政府の衝突のみ……………………財産の特権、貴族の遊食、………………総《あら》ゆる罪悪一に皇帝の名を仮りて弁疎……
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 川地は目を揚げて吾妻を見つ「慥《たしか》に篠田の自筆か」
「左様《さう》です、間違ありませんよ」
「御苦労/\」と川地は首肯《うなづ》きつゝ己《おの》がポケットの底深く蔵《をさ》め「是《こ》れが在《あ》れば大丈夫だ、早速告発の手続に及ぶよ、実に不埒《ふらち》な奴だ、――が、彼奴《やつ》、何処か旅行したさうだが、逃《にげ》でもしたのぢや無《なか》らうナ」
 吾妻は微笑《ほゝゑ》みつ「なに、郷里へ一寸《ちよつと》帰つただけのです、今晩あたり多分|帰京《かへ》つた筈です、で、罪名は何とする御心算《おつもり》ですネ」
「左様《さう》さナ」と主人は頬|撫《な》でつゝ「先《ま》づ不敬罪あたりへ持つて行くのだ、吹つ掛けは成《な》るべく大きくないと不可《いかん》からナ」
「エ、不敬罪ですつて」と吾妻は声やゝ打ち顫《ふる》へり、
 主人は鋭き眼して睨《にら》みぬ「何だ」
「なに、何《どう》もしやしませぬがネ」と吾妻は心押し静めつ「何《ど》の道、大至急願ひたいものです――僕は最早《もう》篠田の面《かほ》を見るに堪へないですからネ」
 吾妻の額には恐怖の雲|懸《かゝ》る、
「何をビク/\するんだ」と、主人は吾妻を一睨《いちげい》せり「其様《そんな》ことで探偵が勤まるか―
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