手に頭|抱《かゝ》へつ「やツ」と言ひつゝお花を見やる、
「何《どう》しなすツたの」と、お花も、松島と云ふ一語に顔|赫《あか》らめぬ、
「なアに、花ちやんの為にも矢張り敵なんだよ、彼《あ》の松島大佐がネ」と大和は茶受《ちやうけ》ムシヤ/\と噛《か》み込みつ「彼《あれ》が余程以前から、梅子さんを貰はうとしたんだ、梅子さんの実父《おやぢ》も、継母《まゝはゝ》の兄と云ふのも、皆《みん》な有名な御用商人なんだから、賄賂《わいろ》の代りに早速承諾したんだ、所が我が梅子嬢は何《どう》しても承知しないんだ、到頭《たうとう》梅子さんを誘《いざな》ひ出して、腕力で侮辱を与へようとしたもんだから、梅子さんも非常に怒つて、松島を片眼《めつかち》にしたんださうな、其れを宅《うち》の先生が何か関係でもあつて、左様《さう》させたやうに言ひ触らして、先生の事業を妨害する奴があるんだ、或は梅子さんが先生を恋して居なさるかも知れんサ、大分世間で其の評判だから、けれど先生は御存知無いんだ、恋愛は其|対手《あひて》が承諾を与へた場合に始めて成立する、所謂《いはゆる》双務契約なんだからなア」と、恋愛法理論を講釈したる彼は、グツと一椀、茶を傾けつ「何《ど》うも美人てものは厄介極まる、僕は大嫌《おほきら》ひだ、」
 老母もお花も転がつて笑ひつ、
「それは、吃度《きつと》、其のお嬢様も左様《さう》で在《いら》つしやいませうよ」と、老母はやがて口を開《き》きて「先生様のやうに、口数がお少《す》くなくて、お情深くて、何から何まで物が解つて在《いら》しつて、其れでドツしりとして居なさるんですもの、其《そり》ヤ、女の身になれば誰でもねエ」
「まア、厭《いや》な阿母《おつかさん》」
「否《い》エ、本当ですよ」
 お花はランプの光|眩《まぶ》し気《げ》に面《かほ》を背向《そむ》けつ「けれど、其のお嬢様など、お幸福《しあはせ》ですわねエ、其様《さう》した立派な方なら、仮令《たとひ》浮き名が立たうが、一寸《ちつと》も男の耻辱《はぢ》にもなりや仕ませんもの――」
 大和は眼を円《まる》くして、襟《えり》に頤《あご》埋めて俯《うつむ》けるお花の容子《ようす》を、マジ/\と見つめぬ、
 此夜お花は眠らぎりき、

     二十六

「今日は又た曇つて来た、何卒《どうぞ》降雪《ふら》ねば可いが」と、空|眺《なが》めながら伯母は篠田を見送りの為め、其の後に付いて、雪の山路を辿《たど》り来りしが「其う云ふ次第《わけ》で、長二や、気を着けてお呉れよ、此世に只《た》だ伯母一人|姪《をひ》一人と云ふのぢや無いか、――亭主には婚礼もせずに逝《ゆ》かれる、お前の阿父《おとつさん》は彼《あ》の様な非業《ひごふ》な最後をする、天にも地にも頼るのはお前ばかりのだ――まあ、之を御覧よ」と、眼下に白き雪の山里|指《ゆびさ》しつ「お前の阿父《おつとさん》は此の秩父《ちゝぶ》の百姓を助けると云ふので鉄砲に撃《う》たれたのだが、お前の量見は其れよりも大きいので、如何《どんな》災難が湧《わ》いて来ようも知れないよ、――此様《こんな》年老《としと》つた上に、逆事《さかさまごと》など見せて呉れない様にの――」
 篠田も何とやらん後髪引かるゝやう「伯母さん、何卒《どうぞ》心配せんで下ださい、重々御苦労を御掛け申して来た今日《こんにち》ですから――其《そ》れに私も既《もう》三十を越したんですから、後先《あとさき》見ずのことなど致しませんよ、父にも母にも為《す》ることの出来なかつた孝行を、貴女《あなた》御一人の上に尽くしたいのが、私の精神ですからネ」
 伯母は涙|堰《せ》きも敢《あ》へず「――長二や、――私や、斯《かう》してお前と歩《あ》るいて居ながら、コツクリと死にたいやうだ――」
 ハヽヽヽと篠田は元気|克《よ》く打ち笑ひつ「何を伯母さん、仰《おつ》しやる、今《い》ま若《も》し貴女に死なれでもして御覧なさい、私は殆《ほとん》ど此世の希望《のぞみ》を亡《なく》して仕舞ふ様なもんですよ、何卒ネ、お躯《からだ》を大切にして下ださい、其のうちに又時を都合して参りますからネ」
「忙しからうがの」と、伯母は小さき袂《たもと》に溢《あふ》るゝ涙押し拭《ぬぐ》ひつ「何卒《どうぞ》其うしてお呉れよ、年増《としま》しにお前が恋しくなるので、――其れに、復《ま》た言ふ様だが、私《わし》の一生の御願だでの、一日も早く嫁を貰ふことにしてお呉れよ、――女房《にようぼ》が無いで身締《みじまり》が何《どう》の角《かう》のなどと其様《そん》な心配は、長二や、お前のことだもの少しも有りはせぬが、お前にしてからが何程心淋しいか知れはせぬよ、女など何の役にも立たぬ様に見えるが、偉い他人でも其の真心には及びませんよ、――諄《くど》いと思ふだろが、お前の嫁の顔見ぬ間《うち》は、
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