六《むつ》ヶ|敷《しい》文句ばかり書いてあるので、能《よ》くは解りませぬでしたが、何でも兼さんに、小米《こよね》さんを殺すなんて悪心が有つたのでは無いと云ふやうに思へましたよ、矢つ張裁判官でも人ですから、少しは同情《おもひやり》があると見えますわねヱ、だから阿母《おつかさん》、余り心配なさらぬが可《よう》御座んすよ」
「難有《ありがた》うよ」と老母は瞼《まぶた》拭《ぬぐ》ひつ「此程《このほど》も伜のことを引受けて下だすつた、弁護士の方が来《いら》しつたんでネ、先生様の御友達の方で、――御両人《おふたり》で種々《いろ/\》御相談なすつて在《いら》しつたがネ、君是れ程筋が立つて居るのに、若《も》し兼吉を無罪にすることが出来ないならば、弁護士を廃《や》めて仕舞へと、先生様が仰《おつ》しやるぢやないか、すると其方《そのかた》もネ、可《よろ》しい約束しようと仰《おつ》しやるんだよ、花ちやん、私、嬉しくて/\……」
「本当にねエ、阿母《おつかさん》」と、お花はブル/\と身を震《ふる》はしつ「何と云ふ御親切な方でせう、――私、考へる毎《たび》に――」と、面《かほ》忽《たちま》ちサと紅《あか》らめ「彼《あ》の様にお忙しい中で、私共のことまであれも是れもとお世話下さるんですもの、何《どう》して阿母《おつかさん》、世間態や人前の表面《うはべ》で、出来るのぢやありませんわねエ――近頃は又戦争が始まるとか、忌《いや》な噂《うはさ》ばかり高い時節ですから、夜分お帰りも嘸《さ》ぞ遅くて在《いら》つしやいませうねエ」
「左様《さう》ですよ、おつちりお寝《おや》みなさる間も無くて在《いら》つしやるので、御気の毒様でネ、ト云つて御手助《おてすけ》する訳にもならずネ――其れに又た何か急に御用でもお出来なされたと見えて、昨日新聞社から直ぐに御郷里《おくに》へ行らしつたのでネ」
「あらツ」と、お花は驚き顔「ぢや先生は御不在《おるす》なんですね――まア――何時《いつ》御帰宅《おかへり》になるんですの」
「端書《はがき》で言うて御遣《おつかは》しになつたのだから、詳しいことは解りませんがネ、明日の晩までには、お帰宅《かへり》になりませうよ、大和さんが左様《さう》言うてらしたから、だから花ちやん、丁度|可《い》い所へ来てお呉れだわネ、寂《さび》しくて居た所なんだから」
「私、まア――ぢや、私、お目に掛ること出来ないんですか――」
「そんなに急ぐのかネ、花ちやん、たまのことだから、少しは遊んで行つても可《い》いでせう、外の処《とこ》ぢや無いもの」
黙つてお花は頭《かしら》を振り「明日の正午までには是非|帰館《かへ》らねばなりませんの」
ガラリ、格子戸《かうしど》鳴りて、大和は帰り来れり「やア、花ちやん、来《いら》つしやい、待つてたんだ、二三日、先生が御不在ので、寂しくて居た所なんだ」
「貴郎《あなた》までが、――そんナ――」とお花は泣きも出《い》でなんばかり、
二十五の二
晩餐を果てて、三人燈下に物語りつゝあり、「何だか、阿母《おつかさん》、先生が御不在と思《お》もや、其処《そこ》いらが寂しいのねエ」と、お花は、篠田の書斎の方《かた》顧《かへり》みつゝ、
「ほんとにねエ、在《いら》しつたからとて、是《こ》れと云ふ別段のことあるでも無いのだけれど」と、兼吉の老母も首肯《うなづ》きつ、
「本当に私、申訳ないと思ひますワ」と、お花は急に思ひ出したるらしく「先生が私を御世話なすつて下さるのを、世間では彼此《かれこれ》申すさうぢやありませんか、私ヤ、何《ど》うせ斯様《かう》した躯《からだ》なんですから、ちつとも関《かま》やしませぬけれど、其れぢや、先生に御気の毒ですものねエ」
「なアに、花ちやん」と、大和《おほわ》は番茶|呑《の》み干しつゝ、事も無げに笑ひて、「其様《そんな》ことは先生に取つて少しも珍らしく無いのだ、此頃は尚《ま》だ酷《ひど》い風評《うはさ》が立つてるんだ――山木の梅子さんて令嬢《かた》と、先生が結婚しなさるんだツて云ふんでネ、是れには先生も少こし迷惑して居なさる様なんだ、皆《みん》な先生を毀《きずつ》けようとする者の卑劣な策略なんだから、花ちやん、左様《さう》心配しなさるに及ばないよ」
「左様でせうか」
「けれど大和さん」と老母は顔差し出し「ツイ此頃も、其の山木のお嬢様とやらの弟御《おとゝご》さんが御来《おいで》になつたで御座んせう、チラと御聞きしただけですから能《よ》くは解りませんけれど、其の御姉《おあねえ》さんが何《どう》してもお嫁に行かないと仰しやるんで、トド、何か大変なことでも出来《しゆつたい》したと云ふ様な御話で御座んしたよ」
「ウム、彼《あ》の松島の一件か」と、大和は例の無頓着《むとんちやく》に言ひ捨てしが、忽《たちま》ち心着きてや両
前へ
次へ
全74ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング