》老人《としより》をお前、弄《なぶ》るものぢや無いよ、其れよりも、まア、何様《どんな》婦人《ひと》だか、何故《なぜ》連れて来ては呉れないのだ」
「伯母さん、最早《もう》、貴女《あなた》にも御紹介《おひきあわせ》した筈ですよ」
「虚《うそ》言うて」と伯母は口開いてカラ/\と打ち笑ひ「私《わし》がお前のお媽《かみ》さんを忘れて可《い》いものかの」
「サ、伯母さん、私の花嫁と云ふのは、其の『おかみさん』のことですよ」
「其のお媽《かみ》さんの名は何と言ふのだの」
「おかみさんと云ふのです」
「長二や、お前、何を言ふだ」と、伯母は又も声高く笑ふ、
「伯母さん、本当の話です、神様が私の花嫁のです、――父とも母とも花嫁とも、有らゆる一切です」
「ヘエ」と、伯母は良久《しばし》言葉もなく、合点《がてん》行かぬ気に篠田の面《おもて》を目《ま》もれり「お前の神様のお話も度々《たび/\》聞いたが、私には何分《どうも》解らない、神様が嫁さんだなんて、全然《まるで》怪物《ばけもの》だの」
「怪物ぢや無い、人ですよ、人の大きいのです、必竟《つまり》、人が神様の小さいのと思や可《い》いですよ」
「左様《さう》云ふものかの」と伯母は思案の首傾けつ、
「現に伯母さん、貴女の所へ私の両親も来る、貴女《あなた》の旦那様も来ると仰《おつ》しやつたでせう――怪物でも、不思議でもありませんよ」
「だがの、長二や、其れは皆《みん》な私《わし》の知つて居る人達だが、お前の嫁の其の神様には、お前、お目に掛つたことがあるかの」
「左様《さう》ですねエ――思ひに悩む時、心の寂《さび》しい時、気の狂ほしい時、熟《じつ》と精神を凝《こ》らして祈念しますと、影の如く幻の如く、其の面《おもて》も見え、其声も聴こゆるですよ、伯母さんのと格別|違《ちがひ》ありますまい」
「其れは長二や、未《ま》だお前には早過ぎるやうだよ」と伯母は頭《かうべ》を振りぬ「私も結局|孤独《ひとり》の方が好いと、心から思ふやうになつたのは、十年|以来《このかた》くらゐなものだよ――今だから洗ひ渫《さら》ひ言うて仕舞ふが、二十代や三十代の、未《ま》だ血の気の生々《なま/\》した頃は、人に隠れて何程《どれほど》泣いたか知れないよ、お前の祖父《おぢいさん》が昔気質《むかしかたぎ》ので、仮令《たとひ》祝言《しうげん》の盃《さかづき》はしなくとも、一旦《いつたん》約束した上は、後家《ごけ》を立て通すが女性《をんな》の義務《つとめ》だと言はしやる、当分は其気で居たものの、まア、長二や、勿体《もつたい》ないが、父《おや》を怨《うら》んで泣いたものよ――お前は今年|幾歳《いくつ》だ、三十を一つも出たばかりでないか、お前がどんな偉い人になつたにしても、マサか仙人では有るまいわ、近い話が、何か身動きもならぬ程に忙しい中を、斯様《こんな》何の相談|対手《あひて》にもならぬ私《わし》を恋しがつて、急に思ひ立つて来ると云ふも、神様の嫁御《よめご》では、物足らぬからではあるまいか、エ、長二、お前が何程《いくら》物識《ものしり》でも、私《わし》の方が年を取つて居りますぞ」
 篠田は腕《うで》拱《こまぬ》きて深思に沈みつ、
 子を伴へる雌雄の猿猴《ましら》が、雪深き谷間鳴きつゝ過ぐる見ゆ、

     二十五の一

 篠田の寂しき台所の火鉢に凭《よ》りて、首打ち垂れたる兼吉《かねきち》の老母《はゝ》は、未《いま》だ罪も定まらで牢獄に呻吟《しんぎん》する我が愛児の上をや気遣《きづか》ふらん、折柄誰やらん訪《おとな》ふ声に、老母《はゝ》は狭き袖に涙|拭《ぬぐ》ひて立ち出でつ「オヽ、花ちやん――お珍らしい、能《よ》くお入来《いで》だネ、さア、お上りなさい、今もネ私一人で寂しくて困つて居たのですよ――別にお変りもなくて――」
「ハア、――老母《おつかさん》も――」と、嫣然《えんぜん》として上り来れるお花は、頭《かしら》も無雑作《むざふさ》の束髪《そくはつ》に、木綿《もめん》の衣《ころも》、キリヽ着なしたる所、殆《ほとん》ど新春野屋の花吉《はなきち》の影を止めず、「大和《おほわ》さんは学校――左様《さう》ですか、先生は不相変《あひかはらず》御忙しくて在《いら》つしやいませうねエ――今日はネ、阿母《おつかさん》、慈愛館からお聴《ゆるし》が出ましてネ、御年首に上つたんですよ、私、斯様《こんな》嬉しいお正月をするの、生れて始めてでせう、是《こ》れも皆な先生の御蔭様《おかげさま》なんですからねエ――其れに阿母《おつかさん》、兼さんから消息《おたより》がありましテ、私、始終《しじゆう》気になりましてネ」
 老母の目は復《ま》た忽《たちま》ち涙に曇りつ「――予審とやらは此頃やうやく済んださうですがネ――」
「左様《さう》ですツてネ――其事は私も新聞で見ましたの、――
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