ひ》と改正なされたら」
「オヽ、飛んだことを、何の長二や、寂しいことがあるものか、多勢寄つて来るので、夜も寝るのが惜《をし》い程|賑《にぎや》かだ」
「ヘエ、何処《どこ》から其様《そんな》に人が参りますか」と篠田の訝《いぶ》かるを、伯母は事も無げに首肯《うなづ》きつ「私の知つとる程の人が、皆な寄つて来るよ、――お前の阿父《おとつさん》も来る、阿母《おつかさん》も来る、祖父《おぢいさん》も祖母《おばあさん》も来なさる、――其《そ》れに、長二、私の許嫁《いひなづけ》で亡くなつた、お前の義伯《をぢ》さんも来るの、其れに斯《か》うしてお前も偶《たま》には来て呉れる、斯様《こんな》嬉しいことがありますか」
ハヽヽと思はずも篠田は笑ひつ「ぢや、伯母さん私も仏様の御仲間入するんですネ」
「左様《さう》サ」と伯母は首肯《うなづ》き「神様か仏様か知らないが、矢ツ張り人間の様だよ、妙なもので、人は生きて居た時よりも、死んだ後の方が皆んな善くなるよ――生きてた時分には、怒り合つたこともあらうし、怨《うら》み合つたこともあらうが、一度死ぬと、悪い所は皆《みん》な墓場へ葬つて、善い所だけが霊魂《たましひ》に残るものと見える、其れに死んだ人は、羨《うらや》ましいことに、年と言ふものを取らないので、誰も彼も皆な若いよ、お前の阿父《おとつさん》でも阿母《おつかさん》でも皆な若いよ、――私の亭主も丁度《ちやうど》二十歳《はたち》で亡《なくな》つたが、其時の姿の儘《まゝ》で目に見える、私《わし》の頭が斯様《こんな》に白くなつたので、どうやら耻かしい様な気がして、最早《もう》何時にも鏡と云ふものを見たことが無いよ――」
ほツほツと片頬《かたほ》に寄する伯母の清らけき笑の波に、篠田は幽玄の気、胸に溢《あふ》れつ、振り返つて一室《ひとま》に煤《すゝ》げたる仏壇を見遣《みや》れば、金箔《きんぱく》剥《は》げたる黒き位牌《ゐはい》の林の如き前に、年|経《へ》て朧気《おぼろげ》なる一個の写真ぞ安置せらる、是《こ》れ此の伯母が、未《いま》だ合衾《がふきん》の式を拳ぐるに及ばずして亡《な》き数《かず》に入りたる人の影なり、
伯母もチヨと其方《そなた》を見やりつ「いつであつたか、彼《あ》の写真が判らぬ様になつたので、大きな油絵とやらに書き代へようと親切に、お前が言うて呉れたが、ナニ、決して其れには及びませぬよ、写真の顔などは見えなくなる程が可《い》いよ、――そりやお前、絵姿なんてものは、極《きま》り切つた顔して居るばかりだけれど、此の心に映る姿は、物も言へば、歩きもする、怒りもすれば笑ひもする、斯様《こんな》自由自在なものは有るまいよ」
「成程」と、篠田は瞑目《めいもく》して、伯母が言葉の端々《はし/\》深く味ひつ、
伯母はほツほと独《ひと》り笑ひつ「私ヤ、まア、勝手なことばかり言つて居たが、長二や、其れよりもお前の嫁《よめ》の決らないのが、誠に心懸《こころがか》りだよ、何《どう》だエ、未《ま》だ矢ツ張り心当りが無いか、――江戸あたりの埃《ほこり》の中には、お前の気に協《かな》つたものは有るまいが、ト云つて山の中にも無しの、ほんに困つて仕舞《しま》うたよ」と首傾けて屈托《くつたく》の態《さま》なりしが「ほう」と一つ己《おのれ》が膝《ひざ》叩《たゝ》きつ「どうだエ、長二、お前、亜米利加《アメリカ》とかで大層お世話になつた婦人《かた》があるぢや無いか、偉い女性《ひと》だとお前が言ふのだから、大した人に相違なかろが、一つ其|婦人《かた》を貰ふわけにやなるまいか、異人でも何でむ構やせぬよ、其れに御亭主の無い婦人《かた》だとお言ひぢやないか、エ、長二」
篠田は腹を拘へて噴飯《ふきだ》せり、
「イエ、本当の話だよ」と伯母は益々|真面目《まじめ》也、
「伯母さん、兼《かね》てお話した通り、偉い女性《ひと》に相違ありませぬがネ、――伯母さんより十歳《とを》も上のお姿さんですよ」
「何だエ」と伯母は眼を円《まる》くし「其様《そんな》豪《えら》い婦人《ひと》で、其様《そんな》歳《とし》になるまで、一度もお嫁にならんのかよ――異人てものは妙なことするものだの」
「別に不思議はありませんよ、現に伯母さんも左様《さう》ぢやありませんか」
「ナニ、私ヤ、是でもチヤンと心に亭主があるのだよ」
「其れならば、伯母さん、御安心下ださい、私もチヤンと花嫁がありますよ」
篠田は晃々《くわう/\》たる雪の山々見廻はして、歓然たり、
「オヽ、お嫁があるとエ」と伯母は驚くまでに打ち喜び
「して、其《そ》れは何時きめました、早く知らせて呉れゝば可《い》いに」
「なに、伯母さん、改めてお知らせする程のことも無いのです、最早《もう》疾《と》くの昔時《むかし》のことですから」
[ほツほ、何を長二、言ふだよ、斯様《こんな
前へ
次へ
全74ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング