けて坂路を辿《たど》る篠田の黒影見えずなる迄、月にすかして見送りぬ、涙に霞《かす》む老眼、硬き掌《たなそこ》に押し拭《ぬぐ》ひつつ、

     二十四の三

 権作老人と立ち別れて篠田は、降り積む雪をギイ/\と鞋下《あいか》に踏みつゝ、我が伯母の孤《ひと》り住む粟野《あはの》の谷へと急ぐ、氷の如き月は海の如き碧《あを》き空に浮びて、見渡す限り白銀《しろがね》を延べたるばかり、
 老夫の旧懐談に心動ける彼は、仰《あふい》で此の月明に対する時、伯母の慈愛に負《そむ》きて、粟野の山を逃れる十五歳の春の昔時《むかし》より、同じ道を辿《たど》り行く今の我に至るまで、十有六年の心裡《しんり》の経過、歴々浮び来つて無量の感慨|抑《おさ》ゆべくもあらず、只《た》だ燃え立つ復讐《ふくしう》の誠意、幼き胸にかき抱きて、雄々しくも失踪《しつそう》せる小さき影を、月よ、汝は如何《いか》に哀れと観じたりけん、焦《こ》がるゝ如き救世の野心に五尺の体躯《からだ》徒《いたづら》に煩悶《はんもん》して、鈍き手腕、其百万の一をも成すこと能《あた》はざる耻かしさを、月よ、汝《なんじ》は如何《いか》に甲斐《かひ》なしと照らすらん、森々《しん/\》として死せるが如き無人の深夜、彼はヒシと胸を抱きて雪に倒れつ、熱涙|混々《こん/\》、誰|憚《はばか》らず声を放つて泣きたりしが、忽《たちま》ちガパと跳《は》ね起きつ、足を踏みしめ、手を振つて、天地も動けと、呼ばはりぬ、

[#ここから2字下げ]
翠《みどり》の帳《とばり》、きらめく星  白妙《しらたへ》の牀《ゆか》、かがやく雪  宏《おほい》なる哉《かな》、美くしの自然  誰《た》が為め神は、備へましけむ、

峯の嵐は、眠りたり  谷の流は、夢のうち  隈《くま》なき月の冬の影  厳かにこそ、静なれ、

眼《まなこ》閉づれば速く近く、何処《いづこ》なるらん琴《こと》の音聴こゆ  頭《かしら》揚ぐれば氷の上に  冷えたる躯《からだ》、一ツ坐せり  両手《もろて》振《ふる》つて歌|唄《うた》へば  山彦《こだま》の末見ゆ、高きみそら、

感謝の声の天《あま》のぼり  琴の調《しらべ》に入らん時  歌にこもれる人の子が  地上の罪の響きなば  弾《ひ》く手とどめて天津乙女《あまつをとめ》  耻かしの 色や浮ぶらめ、

父の正義のしもとにぞ  涜《けが》れし心ひれ伏さむ  母の慈愛の涙にぞ  罪のゆるしを求め泣く  御神《みかみ》よ我を逐《お》ふ勿《なか》れ  神よ汝《な》が子を逐ふ勿れ 

神の心を摸型《かたとり》の  人てふ旨《むね》を忘れてき  神の御園《みその》の海山を  血しほ流して争へり、

万象眠る夜の床  人に逐《お》はれし人の子の  天地を恨《うら》む力さへ  涙と共に涸《か》れはてて  空《むなし》く急ぐ滅亡を  如何に見玉ふ我神よ、

天つ御国を地《つち》の上《へ》に  建てんと叫ぶ我が舌《した》に  燃ゆれど尽きぬ博愛の  永久の焔《ほのほ》恵みてよ、

熟睡《うまい》の窓に束《つか》の間《ま》の  罪逃がれにし人の子を  虚無の夢路にさゝやきて  聖《きよ》き記憶を呼びさませ、

星の帳《とばり》、雪の牀《ゆか》  くしく宏《おほい》なる準備《そなへ》かな  只《た》だ頽廃の人の心  悲しくも住むに堪へざるを、
[#ここで字下げ終わり]

 彼の面《おもて》は嬉々《きゝ》と輝きつ、髯《ひげ》の氷打ち払ひて、雪を蹴《け》つて小児《こども》の如く走《は》せぬ、伯母の家は彼《か》の山角の陰に在るなり、

     二十四の四

 樹《こ》の間《ま》より燈影《ほかげ》の漏るゝ見ゆ、伯母は未《ま》だ寝《い》ねずあるなり、
 細き橋を渡り、狭《せま》き崖《がけ》を攀《よ》ぢて篠田は伯母の軒端近く進めり、綿糸《いと》紡《つむ》ぐ車の音|微《かす》かに聞こゆ、彼女《かれ》は此の寒き深夜、老いの身の尚《な》ほ働きつゝあるなり、
「伯母さん」篠田ほホト/\戸を叩《たゝ》けり、
 車の音|止《や》みぬ、去《さ》れど何の答《いらへ》もなし、
 篠田は再び呼べり「伯母さん」
「誰だエ」と伯母は始めて答《いら》へぬ、
「伯母さん、私です」
「オ、――長二ぢやないか」倉皇《さうくわう》として起ち来《きた》る音して、歪《ゆが》みたる戸は、ガタピシと開きぬ、
「まア――」と驚きたる伯母は、雪に立ちたる月下の篠田を、嬉しげにツクヅクと見上げ見下ろせり「能《よ》く来てお呉れだ、先頃の手紙に、忙しくて当分行くことが出来さうも無いとあつたので、春暖かにでもならねばと思つて居たのに、――嘸《さ》ぞ寒むかつたらう、今年は珍らしい大雪での、さア、お入り、私ヤ又た狐でも呼ぶのかと思つたよ」
「狐と聞違へられでは大変ですネ」と篠田は莞然《くわんぜん》笑《
前へ 次へ
全74ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング