た濁酒《だくしゆ》一椀を傾けつ「べら棒に寒い晩だ」と星晴れたる空を仰ぎながら、ノソリ/\と打ち連れて車台に上りぬ、
 月は出でぬ、
 雪の峰、玲瓏《れいろう》と頭上に輝き渡り、荒川の激湍《げきたん》、巌《いわほ》に吠《ほ》えて、眼下に白玉を砕く、暖き春の日ならんには、目を上げて心酔ふべき天景も、吹き上ぐる川風に、客は皆な首を縮めて瞑黙《めいもく》す、御者《ぎよしや》の鼻唄《はなうた》も暫《し》ばし途断《とぎ》れて、馬の脊《せ》に鳴る革鞭《むち》の響、身に浸《し》みぬ、吉田行なる後《うしろ》なる車に、先きの程より対座の客の面《おもて》、其の容体《ようだい》、訝《いぶか》しげに眺《なが》め入りたる白髪の老翁、やがて慇懃《いんぎん》に札を施し「旦那《だんな》、失礼なこと伺ふ様ですが、失つ張り此の山の人《かた》で在《あら》つしやりますか」
 対座の客は首肯《うなづ》きつ「ハイ、山の男《もの》ですが、只今は他郷に流浪《るろう》致し居りまするので」
「して、山は何《ど》の辺《あたり》で在《あら》つしやりますか」
「粟野《あはの》で御座います」
 老人は良久《しばし》思案の態《てい》なりしが「――若《も》し篠田様――の御縁家では――」
「ハイ、篠田の一族で御座います」
「篠田長左衛門様の――」
「左様《さう》です、長左衛門の伜《せがれ》で」
「左様《さやう》で御座りまするか」と老人は膝《ひざ》の下まで頭《かしら》を下げつ
「先刻からお見受け申す所が、長左衛門様|生写《いきうつし》で在《あら》つしやるから、若《も》し左様《さう》では在《あら》つしやるまいかと考へましたので」
 老人は早くも懐旧の涙に得堪へぬものの如し「私は小鹿野《をかの》の奥の権作《ごんさく》と申しますもので、長左衛門様には何程《どれほど》御厚情を蒙《かうむ》りましたとも知れませぬ、――彼《あ》の騒《さわぎ》で且那様は彼《あゝ》した御最後――が、百姓共の為めにお果てなされた長左衛門様の御恩を忘れてはならねえと、若い者等に言うて聴かせることで御座りまする――ぢやあ、貴郎《あなたさま》は慥《たしか》に長二様と仰《おつ》しやりました坊様で、イヤ、どうも立派な男に御成りなされました、全然《まるで》先《せん》旦那様に御目に掛るやうで御座りまする」
「左様《さやう》でありましたか」と篠田はうなづき「幼少で飛び出しましたので、誠に知人が少ないですが、故郷の山、故郷の水、故郷の人、事に触れ時に従ひて、故郷程懐しきものはありません」
「伯母御様《をばごさま》は御達者で在《あら》つしやりまするか、永らく御目通りも致しませぬが――」
「ハイ、御蔭様で別状も無いやうですが――私も久しく無沙汰《ぶさた》致しましたから、一寸見舞にと思ひまして」
「成程《なるほど》」
「ヂヤ、与太、吉田屋の婆さんに能《よ》く言うて呉れよ、何《いづ》れ近日|返金《おけえし》するつてツたつてナ」と前車《まへ》の御者は喚《わめ》きつゝ、大宮行の馬車は国神宿《くにがみじゆく》に停車せり、
「どうせ、貴様《てめえ》から返金《かへ》して貰へるなんて思つちや居ねえツて言つたよ――其れよりかお竹の阿魔に、泣かずに待《まつ》てろツて伝言《ことづけ》頼むぞ、忘れると承知しねえぞ」と後車《あと》の御者は答へつゝ、篠田と老人とを乗せたる一|輌《りやう》は、驀地《まつしぐら》に孤《ひと》り奔《は》せぬ、
「旦那、此|界隈《かいわい》もヒドく寂《さび》れましたよ」と老人は欺息《かこ》ちつ、

     二十四の二

 雪の坂路を、馬車は右に左にガタリ/\と揺れつゝ上り行く、馬の吐息|冰《こほ》りて煙の如し、夜は既に十時に近からんとす、
「最早《もう》丁度《ちやうど》、十年――廿年になりますナ」と老人は首傾け「イヤ、どうも月月の経《た》つと云ふは早いもので、未《ま》だほんの昨日の様な気が致し居りまするが」長大息を漏らして彼は篠田の面《かほ》をシゲ/\見入りたり「土地のことも知らねえ、言葉さへ訳《わか》らねえ様な役人が来て、御維新《ごいしん》は己《おれ》が成《し》たと言はぬばかりに威張り散らす、税は年増しに殖える、働き盛を兵隊に取られる、一つでも可《い》いことは無《ね》えので、其処で長左衛門様の御先達《おさきだち》で朝廷へ直訴《ぢきそ》と云ふことになつたので御座りましたよ、其れを村の巡査が途方も無《ね》い嘘《うそ》ツぱちを吹聴《ふいちやう》して、騒動が始まるなんて言ひ振らしたので、気早の連中が大立腹《おほはらだち》で闇打《やみうち》を食はせる、憲兵が遣《や》つて来るワ、高崎から鎮台が押し寄せるワ、到頭《たうとう》長左衛門様は鉄砲に当つて、彼《あゝ》したことにお成りなされましたので――」
 老人は暫《し》ばし目を塞《ふさ》ぎて心に浮ぶ当時の光景を偲《しの
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