今ま演壇には、背広の洋服ヤヽ垢《あか》つけるを一着なしたる青年が、手を振り声を張上げて騒々擾々《さうざうぜう/\》たる聴衆と闘ひつつあり、行徳、坂井、松下、菱川、柴等の面々は皆な既に演じ終りたるなりと云ふ、否《い》な、何《いづ》れも五分十分にて中止を命ぜられしなりと云ふ、特《こと》に最も滑稽《こつけい》なりしは、菱川が登壇開口、「戦争で第一に金儲《かねまうけ》するのは誰だか、諸君、知つてますか」の一語|未《いま》だ終らざるに、早くも「中止」の一喝《いつかつ》に逢《あ》ひしことなりとぞ、是れには二階の左側に陣取れる一群の反対者も、手を拍《う》つて哄笑《こうせう》せしにぞ、警視は頬《ほゝ》を脹《ふくら》して暫《し》ばし座りも得せざりしと云ふ、
青年弁士は水ガブ/\と飲《のん》で又た手を振り始めぬ、「諸君が露西亜《ロシヤ》討たざるべからずと言ふけれ共ダ、露西亜の何物を討つと言ふのです」
「露西亜帝国を征伐するんだ」と叫ぶものあり、
弁士は声せし方に向《むかつ》て「果して然らば僕は、我輩は――」
一隅の聴衆ワア/\と冷笑す、
「我輩は諸君の態度が可笑《をか》しいと思ふです、即《すなは》ち諸君は自家撞着《じかどうちやく》です」
「何故自家撞着だ――馬鹿、小僧、引ツ込め」と例の階上の左側より騒ぐ、
「主戦論者は其通り無礼背徳だ」と階下より見上げて応戦するもあり、
弁士は額の汗|拭《ぬぐ》ひつ「看《み》給《たま》へ、露西亜《ロシヤ》帝国政府の無道擅制《ぶだうせんせい》は、露西亜国民の敵ではありませんか、然《さ》れ共《ども》独り露西亜政府のみでは無いです、各国政府の政策と雖《いへど》も、其の手段に露骨と陰険の相違はあるか知れませぬが、其の精神は皆な露西亜と同じ侵略主義ではありませぬか」
喝采《かつさい》湧《わ》くが如くにして階上左側の妨害を埋没《まいぼつ》する刹那《せつな》、警視は起てり「弁士、中止」
「見ろやアイ」「民主々義万歳」など思ひ/\の叫喚《けうくわん》沸騰《ふつとう》して、悲憤の涙を掬《むす》びたる青年弁士の降壇を送れり、
聴衆の少しく静まるを待つて、司会者の椅子《いす》を離れたる渡部伊蘇夫《わたべいそを》は、澄み渡る音声に次の弁士を紹介す「篠田長二君――演題は社会党の……」
皆まで言はさず、喝采の声、堂を動かせり、篠田は既に演壇に立てり、
絶叫の声は拍手《はくしゆ》の間に響けり、満場既に酔《ゑ》ひぬ、
反対者の冷笑|熱罵《ねつば》もコヽを先途《せんど》と沸《わ》き上れり、「露探」「露探」「山木の婿の成りぞこね奴《め》」「花吉さんへ宜《よろ》しく願ひますよ」
彼は徐《おもむ》ろに口を開きぬ「諸君――」
此時、聴衆の頭上を飛ぶが如くに駈《か》け来れる一警部が、演壇に飛び上がつて、何事か警視に耳語《じご》せり、
瞥視は倉皇《さうくわう》、椅子を蹴つて起てり「解散――弁士――中止」
満場総立となれり、警官力を極《きは》めて制すれ共聴かばこそ、「革命」「革命」「革命」
良久《しばし》見てありし篠田は、右手を伸ばしぬ、
「静に」
群衆は舌を留めて篠田を見たり、
「火に油|注《そゝ》ぐ者の火傷《くわしやう》は、我等の微力に救ふことは出来ませぬ」
彼は一揖《いちいふ》して去れり、
満場再び湧き返へれり、玻璃窓《ガラスまど》の砕くる響|凄《すさ》まし、
二十四の一
中仙道《なかせんだう》熊谷《くまがや》を、午後の六時廿分に発したる上武鉄道の終列車は、七時廿六分に波久礼《はくれ》駅に着きぬ、
秩父《ちゝぶ》の雪の山颪《やまおろし》、身を切るばかりにして、戸々《こゝ》に燃ゆる夕食《ゆふげ》の火影《ほかげ》のみぞ、慕はるゝ、
「馬車が出ます/\」と、炉火《ろくわ》を擁《よう》して踞《うづく》まりたる馬丁《べつたう》の濁声《だみごゑ》、闇の裡《うち》より響く「吉田行も、大宮行も、今ま直《すぐ》と出ますよ」
都の巷《ちまた》には影を没せる円太郎馬車の、寂然《せきぜん》と大道に傾きて、痩《や》せたる馬の寒天《さむぞら》に俯《ふ》して藁《わら》を食《は》めり、
二台の馬車に、客はマバラに乗り込みぬ、去れど御者も馬丁《ばてい》も悠々《いう/\》寛々《くわん/\》と、炉辺に饒舌《ぜうぜつ》を皷《こ》しつゝあり、
「オヽイ、馬丁さん、早くしてお呉れよ、躯《からだ》がちぎれて飛んで仕舞《しま》ひさうだ――戯※[#「墟」の「土」に代えて「言」、第4水準2−88−74]《じやうだん》ぢやねえよ」と、車の裡《うち》なる老爺《おやぢ》は鼻汁《はな》すゝりつゝ呼ぶ、
「まア、飛ばねえやうに、繩ででも縛《くゝ》つて置いてお呉れなせえ、此方《こつち》の躯《からだ》もちぎれねえやうに、今ま一杯|行《や》つてくからネ」、御者は又
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