に倒れて、咽《むせ》び入りぬ、「――神様――何卒――お赦《ゆる》し下ださいまし――」

     二十三の一

 ハイ――と警《いまし》むる御者《ぎよしや》の掛声勇ましく、今しも一|輌《りやう》の馬車は、揚々として霞門《かすみもん》より日比谷公園へぞ入り来《きた》る、ドツかと反《そ》り返へりたる車上の主公は、年歯《ねんし》疾《と》くに六十を越えたれども、威風堂々として尚《な》ほ鞍《あん》に拠《よ》つて顧眄《こべん》するの勇を示す、三十余年以前は西国の一匹夫《いちひつぷ》、今は国家の元老として九重《こゝのへ》雲深き辺《あたり》にも、信任浅からぬ侯爵|何某《なにがし》の将軍なりとか、
 陪乗したるは清洒《せいしや》なる当世風の年少紳士、木立の間に逍遙《せうえう》する一個の人影を認むるや指《ゆびさ》しつつ声をヒソめ「閣下、彼処《かしこ》を革命が歩るいて居りまする」
「ナニ、革命」侯爵は身を起して彼方《かなた》を睨《にら》みつ「あの筒袖着た壮士の様な男か」
「ハ、閣下、彼《あれ》が先刻も談柄《だんべい》に上りましたる、社会党の篠田と申す男《もの》で御座りまする」
「フム、松島の一眼を失つたのも、彼《あ》の男の為めか」
「ハ、尤《もつと》も松島の負傷に就《つい》ては、少こし事情もある様に御座りまするが――」
「イヤ、例令《たとへ》如何なる事情があらうとも、此の軍国多事の際、有為《いうゐ》の将校に重傷を負はしむると云ふは容赦ならぬ」と、言ひつゝ将軍は斜《なゝめ》に篠田の後影を睨《にら》みつ、「何して居る、何《いづ》れ善からぬ目算致して居るのであらう」
「ハ、多分今晩演説の腹案でも致し居るものと思はれまする」
「ナニ、演説――何処《どこ》で」
「ハ、神田の青年館と申すで、非戦論の演説会を」
「怪しからんこと」と将軍の眉は動けり「戦争のことは上《かみ》御一人《ごいちにん》の御叡断《ごえいだん》に待つことで、民間の壮士などが彼此《かれこれ》申すは不敬|極《きは》まる、何故内務大臣は之を禁じない――ナニ――だから貴様等は不可《いかん》と言ふのだ、法律などに拘泥《かうでい》して大事が出来るか、俺など皆な国禁を犯して維新の大業を成したものだ、早速電話で言うて遣《や》れ、俺の命令だと云うて――輦轂《れんこく》の下をも憚《はばか》らず不埒《ふらち》な奴等だ」
 将軍は昂然《かうぜん》たり、
 若紳士は唯々《ゐゝ》として頭《かうべ》を垂れぬ、
 馬車は夕陽を浴びつゝ迂廻《うくわい》して、やがて悠々《いう/\》華族会館の門を入りぬ、

      *     *     *

 神田|美土代町《みとしろちやう》なる青年会館の門前には、黒山の如き群集の喧々《けん/\》囂々《がう/\》たるを見る、
「何故《なぜ》入場を許さない」「集会の自由を如何にする」「圧制政府」「警察の干渉」「僕は社会主義に反対のだから入《いれ》て呉れい」「ヒヤ/\」「ノウ/\」「馬鹿野郎」「ワハヽヽ」「ワアイ/\」
 星影まばらに風寒き所、圧《お》しつ圧されつ動揺するさま、怒涛《どたう》の闇夜寄せつ砕けつするに異らず、
 鉄門は既《すで》に固く鎖《とざ》されたり、只《た》だ赤煉瓦《あかれんぐわ》の塀《へい》に、高く掲げられたる大巾《おほはば》の白布に、墨痕《ぼくこん》鮮明なる「社会主義大演説会」の数文字のみ、燈台の如く仰がれぬ、
 幾十となき響官の提灯《ちやうちん》は、吠《ほ》えたける人涛《ひとなみ》の間に浮きつ沈みつして、之を制止する声|却《かへつ》て難船者の救助を求むる叫喚の如くぞ響く「最早《もう》立錐《りつすゐ》の地が無いのだ」「コラ、垣を越えては不可《いかん》」「圧《お》すな/\」「提灯《ちやうちん》が潰《つ》ぶれるワ」「痛い/\」「ヤア/\」
 同じく入場し得ざる為め、少しく隔《へだ》たりて観居《みゐ》たる数名、
「日本も偉いことになつて参りましたナ、此の戦争熱の最中で、非戦論の演説を行《や》らうツてんですから」
「左様《さやう》、其れを又た聴きたいてんで、此の騒《さわぎ》なんですからナ」
「而《し》かも貴所《あなた》、十銭傍聴料を払ふんだから、驚くぢやありませんか」
「正直な所、誰でも戦争など有難いもんぢやありませんのサ、――大きな声ぢや言はれませんがネ」

     二十三の二

 立錐《りつすゐ》の地なしと門前の警官が、絶叫したるも宜《うべ》なりけり、左《さ》しもに広き青年会館の演説場も、只《た》だ人を以て埋めたるばかり、爛々《らん/\》たる電燈も呼吸の為めに曇りて見えぬ、一見、其異に驚くは警官の厳重に排置せられしことなり、
 演壇の右側には一警視の剣を杖《つ》きて、弁士の横顔穴も穿《あ》けよと睨《にら》みつゝあり、三名の巡査は俯《ふ》して速記に忙殺《ばうさつ》せらる、
 
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