ま自転車に点火せんとしつゝあり、
 側《かたへ》には一人、彼《か》の老婆の身を縮めて「剛様、今夜は又た一《ひ》ときは寒う御座んすから何卒《どうぞ》、御気を着け遊ばしてネ――貴郎《あなた》が行つて下ださるので、如何程《どんなに》安心で御座いませう」
「婆《ばあ》や、一飛びだ――何せよ、場所が場所だからナ、僕ア心配で堪まらぬのだ、大洞の伯父だの伯母だのツて、婆や、人間の面《つら》してる畜生なんだ、姉さんの身上《みのうへ》に万一のことでもあつて御覧、何《ど》の顔して人に逢はれるか」
 早や彼は車を運びて、門の方へ進み行く、
 此時|忽《たちま》ち轣轆《れきろく》たる車声、万籟《ばんらい》死せる深夜の寂寞《せきばく》を驚かして、山木の門前に停《とど》まれり、剛一は足をとどめてキツとなれり、
 小門、外より押されて数名の黒影は庭内に顕《あら》はれぬ、先《さ》きなるは母のお加女なり、中に擁《よう》されたるは姉の梅子なり、他は大洞よりの附《つ》け人《びと》にやあらん、
「姉さんですか」剛一は自転車を投じて走《は》せ寄れり、梅子はヒシと抱《いだ》き着きぬ「剛さん――」
 彼女《かれ》は弟の温き胸に頭《かうべ》をよせて、呼吸も絶えなんばかり、
 剛一は緊《しか》と抱きて声励ましつ「凛乎《しつかり》なさい――」
 老婆は只だ涙なり、「――お嬢さま――」

     二十二

 寝床《ねだい》の上に起き直りたる梅子の枕頭《ちんとう》には、校服のまゝなる剛一の慰顔《なぐさめがほ》なる、
「ナニ、姉さん、左様《さう》気をいら立てずと、最少《もすこ》し休んで在《い》らつしやる方が可《い》いですよ」
「けれどネ、剛さん、彼様《あんな》猛悪な心が、此の胸に潜んで居るのかと思ふと、自分ながら恐ろしくて堪《たま》りませんもの、――私は剛さん、奇魔《きれい》に死ぬことと覚悟して居たんです、彼様《あんな》乱暴しようとは、夢にも思やしませんよ、如何《どう》した突嗟《とつさ》の心の変化か、考へて見ても解らないの、矢ツ張り私の心が、怨《うらみ》と怒《いかり》に満たされて居たので、其れで彼《あゝ》した卑怯な挙動《ふるまひ》に出たのですねエ――今朝からネ、一人で聖書を読んだり、お祈《いのり》したりして居たんですよ、私もう――怖《こは》くて怖くて神様の御前《おんまへ》へ出られないんですもの――」
 梅子は身を顫《ふる》はして面《かほ》を掩《おほ》へり、
 剛一も目を閉ぢて暫《し》ばし言葉なかりしが、「――姉さん、篠田さんも其ことを心配してでしたよ」
「エ」と梅子は頭《かしら》を擡《もた》げつ「貴郎《あなた》、篠田さんにお逢ひになつて――」其顔は赧《あか》くなれり、
「ハア、折角《せつかく》の日曜も姉さんの行《いら》つしやらぬ教会で、長谷川の寝言など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田|様《さん》を訪問したのです、――非常に憤慨《ふんがい》してでしたよ」
「私の挙動《きよどう》をでせう」
「左様《さう》ぢやないです」と剛一は頭《あたま》を掉《ふ》りつ「仮令《たとひ》世界を挙げても、処女《をとめ》の貞操と交換することの出来ない真理が解らぬかツて、憤慨して居られました、何でも彼《あ》の翌日と云ふものは、警察の手を以て彼《あ》のことの新聞へ出ない様に、百方奔走をしたんださうです、日本軍隊の威信と名誉に関《かゝ》はるからと云ふんでネ――実に怪《け》しからんぢやありませんか、今の社会が言ふ所の威信とか名誉とか言ふのは何を指すのです、僕は此の根本を誤つてる威信論や名誉論を破壊し尽さぬ間は、到底《たうてい》道義人情の精粋を発揮することは出来ぬと思ふです」
「アヽ、剛さん、――世間からは毒婦と恐れられ、神様からは悪魔と賤《いや》しめられて忌《いや》な生涯《しやうがい》を終らねばならんでせうか――私、此の右手を切つて棄《す》てたい様だワ――」
「姉さん」と剛一は膝を進めぬ「篠田さんの心配して居なさつたのは其処《そこ》なんです、貴嬢《あなた》の一生の危機は、先夜の危難の際では無く、虎口を脱れなすつた今日《こんにち》に在《あ》ると仰《おつ》しやるんです、――姉さん、貴嬢は今ま始めて凡《すべ》ての束縛《そくばく》から逃れて、全く自由を得なすつたのです、親の権力からも、世間の毀誉褒貶《きよはうへん》からも、又た神の慈愛からさへも自由になられたのである、今は貴嬢《あなた》が真正《ほんたう》に貴嬢の一心を以て、永遠の進退を定めなさるべき時機である、――愛の子か、詛《のろひ》の子か――けれど君の姉さんが此際、撰択《せんたく》の道を過《あやま》つ如き、弱く愚《おろか》なる人で無いことは確《たしか》に信ずると篠田さんは言うてでしたよ、――姉さん篠田さんは貴嬢を斯《か》くまで篤《あつ》く信じて居なさいますよ」
 梅子は枕
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