やがふ》を自白するんだナ」
「何を仰《おつ》しやる――」
梅子のキツとなるを、松島|笑《わらつ》て受け流《な》がし、
「左様《さう》だらう、未《ま》だ結婚もしない、公然約束もしない、父母の承諾を得たでもない、其れで良人があるとすれば、野合の外なからう」
「――貴所《あなた》は愛の自由と神聖とをお認めになりませぬか」
「神聖も糞もあるかい」
梅子の柳眉《りうび》は逆立《さかだ》てり「軍人の思想は其程《それはど》に卑劣なものですか」
「何ツ」松島は猛獅《まうし》の如く躍《をど》り上りつ、梅子の胸を捉《とら》へて仰《あふむ》けに倒せり、「女と思つて赦《ゆる》して置けば増長しやがつて――貴様《きさま》の此の栄耀《ええう》を尽くすことの出来るのは誰のお蔭だ、貴様等を今日乞食にしようと、餓死《うゑじに》させようと、我が方寸にあることを知らないか――軍人の卑劣とは聞き棄てならぬ一言だ――貴様の大事な篠田の受売だらう、見とれ、篠田の奴も決しで安穏に許るしては置かぬぞ、貴様等の為めに帝国軍人の名誉を毀《きずつ》けてなるものか」
力を極《きは》めて押し付くるを、梅子は絶えなんばかりの声振り絞《しぼ》りつ、「――人道の敵ツ」
黒髪バラリと振り掛かれる、蒼《あを》き面《おもて》に血走る双眼、日の如く輝き、怒《いかり》に震《ふる》ふ朱唇《くちびる》白くなるまで噛《か》み〆《し》めたる梅子の、心|決《きは》めて見上たる美しさ、只《たゞ》凄《すご》きばかり、
炎々たる情火に松島は、気狂ひ、心|悶《もだ》えて眼さへに眩《くら》くなれり、
「――復讐《ふくしう》――」
今や心狂ひたる軍人の鉄腕に擁《よう》せられたる、繊細なる梅子の身は、鷹爪《ようさう》に捉《と》らはれたる雛雀《すうじやく》とも言はんか、仮令《たとひ》声を限りに叫べばとて何処《いづこ》より、援助来らん、一点の汚塵《をぢん》だも留めたるなき一輪の白梅、あはれ半夜の狂風に空《むな》しく泥土《でいど》に委《ゐ》すらんか、
押へられたる儘《まゝ》、梅子は瞬《またゝ》きもせで睨《にら》み詰めたり、
松島は梅子を引き起しつゝ、其の繊弱《かよわ》き双腕《りやうわん》をばあはれ背後《うしろ》に捉《とら》へんずる刹那《せつな》、梅子の手は電火《いなづま》の如く閃《ひらめ》けり、
「キヤツ」と一声、松島の大なる躯《からだ》はドウと倒れぬ、
* * *
襖《ふすま》を隔《へだ》てて窺《うかが》ひ居たるお熊は、尋常《ただ》ならぬ物音に走《は》せ出でぬ、
看《み》よ、松島はヒシと左眼を押へて悶絶《もんぜつ》す、手を漏れて流血|淋漓《りんり》たり、
梅子はスツクと立ち上れり、其の右手には汚血《をけつ》を握りつ、
「来て下ださい」
絶叫したるまゝ、お熊は倒れぬ、
何事やらんと駆《か》け上がりたる大洞《おほほら》も、お加女《かめ》も、流るゝ血潮に驚きて、只《た》だ梅子の面《かほ》を見つめしのみ、
梅子は始めて唇を開きぬ「警察へ引き渡して頂きませう――私は血を流した罪人です」
死力を籠《こ》めたる細き拇指《おやゆび》に、左眼|抉《ゑぐ》られたる松島は、痛《いたみ》に堪へ得ぬ面《かほ》、僅《わづか》に擡《もた》げつ「――秘密――秘密に――名誉に関はる――早く医者を、内密に――」
「名誉ツ?」梅子は突つ立てるまゝ、松島を睨《にら》めり、「名誉とは何事です、誰の名誉に関はるのです、殺人と掠奪《りやくだつ》を稼業《かげふ》にする汝等《なんぢら》に、何で人間の名誉がありませうか、――女性《によせい》全体の権利と安寧との為めに、必ず之を公にして、社会の制裁力を試験せねばなりません」
梅子の視線はお加女の面上に転ぜり「継母《はゝうへ》、貴女は嘸《さ》ぞ御不満足で御座いませう、貴女の女《こ》は、世にも恐ろしき流血の重罪を犯《をか》しました、けれど継母《はゝうへ》、貴女のお望の破操の大悪よりは、軽う御座いますよ――」
彼女《かれ》の眼光は電光の如く大洞の顔を射れり「処女の神聖を涜《け》がさん為めに準備せられた此の建物が、野獣の汚血《をけつ》に塗《まみ》れたのは、定めて浅念なことでせう――傷《きずつ》けるものの為めには医師を御招きなさい、けれど、犯罪者の為めに、何故《なぜ》早く警官をお呼びなさらぬ」
大洞は、色を失つて戦慄《せんりつ》するお加女の耳に近《ちかづ》きつ、「少《す》こし気を静めさして今夜の中に密《そつ》と帰へすが可《よ》からう――世間に洩れては大変だ」
* * *
ヒユウ/\と枝を鳴らせる寒風も、今は収まりて、電燈の光|寂《さび》しき芝山内《しばさんない》の真夜中を山木剛造の玄関には、何処《いづく》にか行かんとすらん、一子剛一の今《い》
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