さるでせう、貴嬢は私を御存知ありますまいが、私は能《よ》く貴嬢を存じて居ります――私は前年先妻を亡《うし》なつた時、最早《もは》や終生独身と覚悟致しました、――梅子さん、仮にも帝国軍人たるものが、其の決心を打ち忘れて、斯かる痴態を演ずると云ふ、男子が衷情《ちゆうじやう》の苦痛を、貴嬢は御了解下ださらぬですか」
松島は梅子の袂《たもと》をシカと握れるまゝ、ジツと其|面《おもて》ながめ遺《や》り「斯く御婦人に対して御無礼を働きまするも――幾度も拒絶されたる貴嬢に対して、耻辱を忍《しのん》で御面会致すと言ふも、人伝《ひとづ》てにては何分にも靴を隔てて痒《かゆき》を掻くの憾《うらみ》に堪へぬからです、今日《こんにち》に至《いたつ》ては、強《しひ》て貴嬢の御承諾を得たいと云ふのが私の希望では御座いませぬ、只だ貴嬢の御口から直接《ぢか》に断念せよと仰《おつ》しやつて下ださるならば、私は其を以て善知識の引導と嬉しく拝聴致します、不肖ながら帝国軍人です、匹夫《ひつぷ》野人《やじん》の如く飽くまで纏綿《つきまと》つて貴嬢を苦め申す如き卑怯《ひけふ》の挙動《ふるまひ》は、誓つて致しませぬ、――何卒、梅子さん、只だ一言|判然《はつきり》仰《おつ》しやつて下ださい」
梅子はワナなく身を耐《こら》へて瞑目《めいもく》す、
松島は一きは声ひそめつ、「梅子さん、今に至《いたつ》て考へて見れば、我ながら余りの愚蒙《ぐもう》と軽忽《けいこつ》とに呆《あき》れるばかりです、私は初め山木君――貴嬢《あなた》の父上の御承諾を得ました時、既に貴嬢の御承諾を得たるが如く心得、歓喜の余り、親友|知己等《ちきら》へも吹聴《ふいちやう》したのです、御笑ひ下ださるな、恋は大人《おとな》をも小児《こども》にする魔術です、――去れば今日《こんにち》、貴嬢から拒絶されたと云ふことが知れ渡つたものですから、同僚などから殆《ほとん》ど毎日の如く冷笑される、何時《いつ》結婚式を挙げるなど揶揄《からか》はれる其度《そのたび》に、私は穴にも入りたい様に感じまするので、寧《むし》ろ自殺して此の痛苦から逃れようかなど考へることもありまするが併《し》かし是《こ》れ一に私の罪なので、誰を怨《うら》むる筈《はず》も無く、親の権力が其子の意思を支配し得ると云ふ野蛮思想から、軽忽《けいこつ》に狂喜した我が愚《おろか》を慚愧《ざんき》する外はありませぬ――併《し》かし其の為に貴嬢の御名をも汚がすが如き結果になりましては、何分我心の不安に堪へませぬので、――海軍々人は爾《しか》く婦人を侮辱するものと言はれては、是れ実に私一人の耻辱のみでは無いのでありますから、今晩は此の罪をも謹《つゝしん》で貴嬢の前に懺悔《ざんげ》し、赦《ゆる》したと云ふ一言の御言葉を得たいと思ふので御座いまする――」
瞑目《めいもく》せる梅子の心中には、今日しも上野公園にて、図《はか》らずも邂逅《かいこう》せる篠田の面影《おもかげ》明々《あり/\》と見ゆるなり、再昨年《さいさくねん》の春の夜始めて聴きたる彼の説教は、朗々と響くなり、彼を思うて人知れず絞れる生命《いのち》の涙、身も魂《たま》も捧げて彼を愛すと誓へる神前の祈祷《いのり》、嬉しき心、辛《つら》き思《おもひ》、千万無量の感慨は胸臆三寸の間に溢《あふ》れて、父なる神の御声《みこえ》、天に在《い》ます亡母《はゝ》の幻あり/\と見えつ、聞えつ、何故《など》斯《か》かる汚穢《けがれ》の筵《むしろ》に座して、狼《おほかみ》の甘き誘惑《いざなひ》に耳を仮《か》すやと叱かり給ふ、
松島は膝を正して手を拱《こまぬ》けり、「何卒我が過去の罪は梅子さん、お赦《ゆる》し下ださい」
梅子は面《かほ》を揚《あ》げぬ「松島さん、貴所《あなた》は必ず女性《をんな》の貞節を重んじて下ださいませうネ」
松島は訝《いぶか》しげに梅子を見ぬ「――、其れは勿論《もちろん》です――」
「松島さん、感謝致します――私には既に誓つた良人《をつと》があるので御座いますから――」
梅子の頬は珊瑚《さんご》の如く紅《あか》く輝きぬ、
二十一の五
「何ですツ」松島の血相は忽《たちま》ち変はれり「良人があると」
「ハイ」梅子も厳然として松島を睨《にら》み返へせり、
「フム其りや始めて承はる」と、松島は満面|軽蔑《けいべつ》の気を溢《あふ》らしつ「何時《いつ》結婚なされた」
「否《いえ》、結婚は致しませぬ」
「然《しか》らば、何時《いつ》約束なされた」
「約束も致しませぬ」
「然《さ》らば御尋ね致すが、御両親も承諾されたのか」
梅子はホヽ笑みぬ「親の権力も子の意思に関渉することの出来ないのは、貴所《あなた》、只今御説明なされたでは御座いませぬか」
グツト詰まりし松島は、ヤガて冷笑一番「ウム婦人の口から野合《
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