厚情に預《あづか》る、海軍の松島様で――御不礼《ごぶれい》無い様に御挨拶《ごあいさつ》を」
 偖《さて》はと梅子の胸|轟《とどろ》くを、松島は先《ま》づ口を開きつ「我輩が松島と云ふ無骨漢《ぶこつもの》です――御芳名は兼ねて承知致し居ります」
 去れど梅子は只《た》だ重ねて黙礼せるのみ、
 如才なき大洞は下婢が運べる盃《さかづき》取つて松島に差しつ「ぢや、貴所《あなたさま》からお始め下さい」
「梅子、お酌を」と、お加女は促《うな》がしつ、

     二十一の三

「御酌を」と促《うな》がされたる梅子は、俯《うつむ》きたるまま、微動《みゆるぎ》だにせず、
 再び促がされても、依然たり、
「何《どう》したんだねエ、此の女《こ》は」と、お加女《かめ》の耐《こら》へず声荒ららぐるを、お熊はオホヽと徳利《てうし》取り上げ、
「なにネ、若い方は兎角《とかく》耻づかしいもんですよ、まア其の間《うち》が人も花ですからねエ――松島さん、たまにほ、老婆《おばあ》さんのお酌もお珍らしくて可《よ》う御座んせう」
「老女《としより》の方が実は怖《こは》いのサ」と、松島の呵々大笑《かゝたいせう》して盃を挙ぐるを、「まア、お口のお悪いことねエ」とお熊も笑ひつ「何卒松島さんお盃はお隣へ――」
「左様《さう》ですか、――然《し》かし失礼の様ですナ」と、美しき梅子の横顔、シゲ/\見入りつ「では、山木の令嬢」と小盃《ちよく》をば梅子に差し付けぬ、
「梅ちやん、松島さんのお盃《さかづき》ですよ」と徳利差し出して、お熊の促《うな》がすを、梅子は手を膝《ひざ》に置きたるまゝ、目を上げて見んとだにせず、
「梅子、頂戴《ちやうだい》しないのかね」と、お加女は目に角立《かどた》てぬ、
「かう云ふ不調法もので御座いましてネ、誠に御不礼ばかり致しまして」
「なにネ、お加女さん、御婚礼前は誰でも斯《か》うなんですよ」と、お熊はバツを合はして「ぢやア梅ちやんの名代《みやうだい》に、松島さん、私が頂戴致しませう」
「こりや奇麗《きれい》な花嫁が出来ましたわイ」と利八は大笑す、
「あら、旦那、何ですねエ」と、お熊は手を揚《あ》げて、叩《たゝ》くまねしつ「是《こ》れでも鶯《うぐひす》鳴かせた春もあつたんですよ」グツと飲み干してハツハと笑ふ、
 何れも相和して笑ひどよめく、
 梅子の眉ビクリ動きつ、帯の間より時計出して、ソと見やるを、お熊は早くも見とめて「梅ちやん、タマに来て下だすつたんだから、何卒|寛裕《ゆつくり》して下ださいナ、其れに御遠方なんだから、此の寒い夜中にお帰りなさるわけにはなりませんよ、最早《もう》、其の心算《つもり》にして置いたのですから、一泊《おとま》りなすつてネ――ねエ、お加女さん、可《い》いでせう」
「ハア、遅くなつたら泊りますからツて、申しては来ましたがネ」
「ぢや、大丈夫ですよ」と、早くもお熊は酒が言はする上機嫌《じやうきげん》「暫《しばら》く振りで梅ちやんの琴を聴かせて頂きませう――松島さん、梅ちやんは西洋のもお上手で在《いら》つしやいますがネ、お琴が又た一ときはで在つしやるんですよ」
「左様《さう》ですか、――是非拝聴致しませう」と松島は盃《ちやく》を片手に梅子に見とるゝばかり、
 酒次第に廻りて、席|漸《やうや》く濫《みだ》る、
「旦那」と小声に下婢の呼ぶに、大洞は暫《し》ばしとばかり退《ま》かり出でぬ、
 お熊の目くばせに、お加女も何やらん用事ありげに立ち去りぬ、
 お熊は松島の側近く膝《ひざ》を進めて「ほんとにねエ、さうして御両人《おふたり》並んで在《いら》つしやると、如何《どんな》に御似合ひ遊ばすか知れませんよ――梅ちやん、貴嬢《あなた》も嬉しくて居《いら》つしやいませう」と、酔顔斜めに梅子を窺《うかが》ひ、徳利《てうし》取り上げて松島に酌《つ》がんとせしが「あら、冷えて仕舞《しま》つたんですよ」と、ニヤり松島と顔見合はせ、其儀《そのまゝ》スイと立つて行きぬ、微動だもせで正座し居たる梅子、今まお熊さへ出で行くと見るより、直《ただち》に立つて後を追はんとするを、松島、忽如《こつじよ》猿臂《えんぴ》を伸ばして袂《たもと》を捉《とら》へつ、「梅子さん」
「何遊ばすツ」振り回《かへ》りたる梅子の面《かほ》は憤怒の色に燃えぬ、
 グイと引きたる男の力に、梅子の袂《たもと》ピリヽ破れつ、

     二十一の四

「何あそばすツ」
 と再び振り向く梅子を、力まかせに松島は引き据《す》ゑつ、憤怒の色、眉宇《びう》に閃めきしが忽《たちまち》にして強《しひ》て面《おもて》を和《やは》らげ、
「梅子さん、貴嬢《あなた》、余り残酷ではありませぬか、成程《なるほど》今夜の始末、定めて御立腹でもありませうが、少しは御推察をも願ひたい――私の切情は、梅子さん、疾《と》く御諒承下だ
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