あた》りになりましても、貴嬢《あなたさま》ばかりには一目《いちもく》置いて居《いら》したのが、彼《あ》の晩の御剣幕たら何事で御座います、父子《おやこ》の縁も今夜限だと大きな声をなすつて、今にも貴嬢《あなた》を打擲《ちやうちやく》なさるかと、お側に居る私さへ身が慄《ふる》ひました――それに奥様の悪態を御覧遊ばせ、恩知らずの、人非人《にんぴにん》の、何《なん》の角《か》のと、兎《と》ても口にされる訳のものでは御座いませぬ、私でさへ彼《あ》の唇《くち》を引ツ裂いてあげたい程に思ひましたもの、貴嬢《あなたさま》能く御辛抱なされました――其れがマア、不審では御座いませぬか、一週間|経《た》つや経たずに、貴嬢をお連れなすつての宮寺《みやでら》詣《まゐ》り――貴嬢をお伴《つ》れ遊ばして奥様の御遊山《ごゆさん》は、私初めてお見受け申すので御座いますよ、是れはお嬢様、上野浅草は託《かこつけ》で、大洞様の御別荘が目的《めあて》に相違御座いません、今夜の橋場が、私、誠に心懸りで――何《どう》やら永い訣別《おわかれ》にでもなる様な気が致しまして――」
 梅子はジツと瞑目《めいもく》してありしが「婆や、其れ程迄に思つてお呉れのお前の親切は、私、嬉しいとも恭《かたじけ》ないとも言葉には尽くされないの、けれど私、何も今日|死《しに》に行くと云ふぢやなし」
 聊《いさゝ》か躊躇《ちうちよ》せる梅子は、思ひ返へしてホヽと打ち笑み「そりや、婆《ばあ》や、お前が日常《いつも》言ふ通り、老少不常なんだから、何時《いつ》如何《どんな》ことが起るまいとも知れないが、然《し》かし左様《さう》心配した日には、家《うち》の中にも居られなからうぢやないかネ、――多分遅くならうと思ふから婆や、何卒《どうぞ》先きに寝てお呉れよ、寒いからネ」
 老婆は歔欷《きよき》して言語《ことば》なし、
 開きかゝりてありし襖《ふすま》の間《あひ》より下女の丸き赭面《あからがほ》現はれて「お嬢様、奥様が玄関で御待ち兼ねで御座んす」
「オ、左様《さう》でせうネ」と急ぎ行かんとする梅子の袂に、老婆は縋《すが》りつ、「――お嬢様、――お慎深《つゝしみぶか》い貴嬢《あなたさま》へ、申すもクドいやうで御座いますが――何卒お気を着けなすつて下さいまし――御待ち申して居りますよ――」
 仰ぎたる老婆の面《かほ》は、滲々《さん/\》たる涙の雨に濡《ぬ》れぬ、
 軽く首肯《うなづ》きたる梅子も、絹巾《ハンケチ》に眼を掩《おほ》ひぬ、

      *     *     *

 二輌の腕車《わんしや》は勇ましく走《は》せ去れり、

     二十一の一

 上野なる東照宮の境内を遠近《をちこち》話しながら歩を移す山木のお加女《かめ》と梅子、
「ネ、梅子、左様《さう》でせう、だから余ツ程考へなけりやなりませんよ、何時《いつ》までも花の盛《さかり》で居るわけにはならないからネ、お前さんなども、何《いづれ》かと言へば、最早《もう》見頃を過ぎた齢《とし》ですよ、まア、縹緻《きりやう》が可《い》いから一ツや二ツ隠《か》くしても居れようがネ――私にしてからが、只《た》だお前さんの行末を思へばこそ、斯《かう》してウルさく勧めるんだアね、悪く取られて、たまつたもんぢやありませんよ」
「阿母《おつか》さん、勿体《もつたい》ない、悪く取るなんてことあるものですか」
「けれど言ふことを聴いてお呉れでなきや、悪るく取つておいでとしか思はれませんよ」
 樹間隠《このまがく》れに見ゆる若き夫婦の盛装せるが、睦《むつ》ましげに語らひ行く影を、ツクヅクとお加女は見送りながら「梅子、あれを御覧なさい、まアほんとに可愛らしい、雛人形《ひなにんぎやう》の様だよ――私も早くお前さんの彼《あゝ》した容子《ようす》を見たいと、其ればつかりが、親の楽《たのしみ》だアね、大きな娘を何時《いつ》までも一人で置いては、世間体も悪るし、第一草葉の蔭のお前の実母《おつか》さんに対して、私が顔向けなりませんよ――まア御覧なネ、あの手を引き合つて、嬉《うれ》しさうに笑つて、――男でも女でも彼《あれ》が一生の極楽世界と云ふもんですよ――羨ましいとは思ひませんかネ」
 ジロリと、お加女は横目に見やれり、
 梅子は他方を眺《なが》めつゝあり、
「あゝ、恐ろしいお嬢様だこと――」、お加女は目に角立てて独言《ひとりごと》しぬ、
 二人は無言のまゝ長き舗石《しきいし》を、大鳥居の方に出で来れり、去れど其処には二輌の腕車《くるま》を置き棄てたるまゝ、何処《いづく》行きけん、車夫の影だも見えず、
「何《どう》したつてんだねエ――日がモウ入りかけてるのに、仕様《しやう》があつたもんぢやない、チヨツ」と、お加女は打ち腹立てて、的《まと》もなく当り散らしつゝあり、
 通りかゝれる職人体《しよくに
前へ 次へ
全74ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング