さへ甘んじて敬愛尊信した彼は――諸君、――売節漢であつた、疑《うたがひ》もなき間諜《かんてふ》であつた」
「間諜《かんてふ》ツ」と一人は吾妻を睨《にら》めり、
「馬鹿ツ」と他の一人ほ冷然微笑せり、
一同の吾妻の言に取り合はざるに、彼は悄然《せうぜん》として落涙せり「アヽ、諸君、――僕の言を借用なさらぬは、必竟《ひつきやう》僕が平素の不徳に依るですから、已《や》むを得ないです、が、先生を間諜《かんでふ》と認めたのは、僕の観察では無い、先生とは最も密接の関係ある鍛工《かぢこう》組合が調査の結果、昨夜の臨時総会に於《おい》て満場異存なかつた決議です――」
「ナニ、鍛工組合が決議した――吾妻、又た虚言《うそ》吐《つ》いちや承知せぬぞ」
「騒いぢや可《い》かん、――彼《あ》の松本が例の猜忌《さいき》と嫉妬の狂言なんだらう、馬鹿メ」
吾妻は目を挙げて「左様《さう》です、若《も》し松本等の主張ならば、僕も驚きは致しませぬ、然《しか》るに彼《あ》の温良なる、寧《むし》ろ温柔の嫌《きらひ》ある浦和武平が、涙を揮《ふる》つて之を宣言したのです、余程正確なる証拠を握つて居るらしいです、昨夜は兎《と》に角《かく》、調査委員を選《えらん》で公然之を審判すると云ふことにして散会したさうですが――聞く所に依れば、先生も咋夜は真ツ青になつて、一言の弁解も無つたさうです、僕は斯《か》かる不祥を聴かねばならぬことを、我が耳の為めに悲むです――」彼は面《かほ》を掩《おほ》うて歔欷《きよき》したり、
一同|瞑目《めいもく》せり、拱手《きようしゆ》せり、沈思せり、疑団の雲霧は漸《やうや》く彼等の心胸《しんきよう》に往来し初《そ》めけるなり、
階子《はしご》に足音聞こゆ、疑ふべくもあらぬ篠田の其れなり、彼は今ま此の疑雲猜霧《ぎうんさいむ》の裡《うち》に一歩一歩静に足を進めつゝあるなり、
皆な眸《ひとみ》を扉に集めぬ、
扉は開かれぬ、
篠田は入り来りぬ、
一同期せずして一歩遠ざかりつ、唇を結べるまゝ冷《ひや》やかに目礼せり、
* * *
翌朝の都下新聞紙には左の如き同一の記事を掲げられぬ、何人が通信したりけん、
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●社会党と露犬 同胞新聞主筆篠田長二が、外に清貧を仮装しつゝ、内実|奢侈放逸《しやしはういつ》に耽《ふけ》れることは其筋に於《おい》て注意する所なりしが、鍛工組合に放ても内々調査したりし結果、一昨夜を以て臨時総会を開き、彼に露探の嫌疑《けんぎ》充分なりとの故を以て審判委員五名を選定せり
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「机の塵」「隣の噂」など云へる戯文欄に於て揶揄《やゆ》、冷評を加へしも少からず「基督教徒《キリストけうと》の非国家的思想」テフ大標題を掲げて、基督教は売国教なる所以《ゆゑん》を痛論せる仏教主義の新聞もあり、
二十
山木剛造の玄関には二輌の腕車《わんしや》、其の轅《ながえ》を揃《そろ》へて、主人《あるじ》を待ちつゝあり、
化粧室なる大玻璃鏡《すがたみ》の前には、今しも梅子の衣紋《えもん》正して立ち出でんとするを、其の後姿仰ぎてありし老婆の声|湿《うる》ませつ「では、お嬢様、何《どう》でも行《いら》つしやるので御座いますか――斯様《こんな》こと申したらば、老人《としより》の愚痴《ぐち》とお笑ひ遊ばすかも知れませぬが、何となく今日《こんにち》に限つて胸騒ぎが致しましてネ――」
梅子は玻璃鏡《かがみ》に映れる老婆の影をながめて微笑しつ「婆や、私だつて、今日此頃外へ出るなど少しも好みはしませんがネ、折角《せつかく》母様がお誘ひ下ださるのだから、御伴《おとも》するんです――けれど、婆や、別に心配なこと無いぢやないかネ」
「いゝえ、お嬢様、上野浅草へ行《いら》しやるのを、心配とも何とも思ひは致しませんが――帰途《かへり》に大洞《おほほら》様の橋場の御別荘へ、お寄りなさると仰《おつ》しやるぢや御座いませんか」
「左様《さう》よ」
「サ、それが、お嬢様、何となく心懸《こゝろがか》りなので御座います」
「何故《なぜ》――婆や」
老婆は垂頭《うなだれ》て語《ことば》なし、良久《しばらく》ありて「近頃、奥様の御容子《ごようす》が、何分《どうも》不審なので御座いますよ、先日旦那様が御帰京《おかへり》になりました晩、伊藤侯が図《はか》らずも媒酌人《ばいしやくにん》に為《な》つて下ださるからとのお話で、大勲位の御媒酌なんて有難いことは無いと、奥様も大層な御歓喜《およろこび》で在《いら》しつたで御座いませう、其れをお嬢様、貴嬢がキツパリ御断《おことわり》になつたもんですから……御両所《おふたり》の彼《あ》の御立腹は如何《いかが》で御座いました、旦那様は随分|他人《ひと》には酷《ひど》くお衝《
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