や》の如く口頭より焔《ほのほ》を吐きつゝ突ツ起ちてあり、
「君等は真面目に其様《そんな》ことを言つとるのか――労働者は無智で軽忽《けいこつ》で、離間者の一言で起《お》こしも臥《ね》かしも出来るもんだと云ふことを発表しようとするのか――我々の周囲には日夜探偵の居ることを注意し給へ――否《い》な、我々の間にも或は探偵が潜伏しとるかも知れないのだ」
「誰を探偵だと云ふのか、菱川君」と松本は疾呼《しつこ》大声《たいしやう》す、「僕が其《それ》を答へる前に、松本君、君は尚《な》ほ弁明の義務を負《お》んどるぢやないか、君は誰の言を信じて篠田君を探偵と云ふのだ、売節漢と云ふのだ」
「イヤ、其問題は既に経過した、其れとも君は此の松本を指して虚言者と云ふのか」
 菱川の太き眉は釣り上がれり「其れが果して日本の労働者の言語なのか、日本の労働者は三百代言にも劣つた陰険な心を持つとるのか、――君は必ず或者から固く名前を秘する様に頼まれたのだらう、君が信用する或者とは、必ず憎《にく》むべき探偵であるに相違ない」
 松本は沸騰《ふつとう》する怒気に口さへ利かぬばかり、
 行徳は静に言ふ「諸君は少こし考へたならば、篠田君が果して我々同志を売るものか如何《どう》か知れるではないか、――同君が賤業婦人を救ひ出すのは珍らしいことではない、加之《しかのみならず》諸君は之を称讃して麗《うる》はしき社会的救済事業と認めて来たでは無いか、又た四月の大会の為め、九州炭山坑夫の為め、経費募集のことの為めに苦心|焦慮《せうりよ》して居らるゝことは、諸君も御承知の筈《はず》では無いか――」
「彼が募集し得た金を握つて敵陣へ降参する魂胆に、注意して貰ひたい」と松本は遮《さへぎ》りぬ、
「君等は猜疑心《さいぎしん》の為めに自殺するのか」流石《さすが》に行徳も遂《つひ》に赫怒《かくど》せり、
 頭を振りつゝ松本は躍《をど》り上つて叫ぶ「諸君は宜《よろ》しく自ら決断せねばならぬ、諸君は果して僕を信ずるか、信じないか」
「労働者諸君、諸君は共和民主々義を棄《す》てて擅制《せんせい》君主々義に従ふのか」と、手を振つて菱川は号叫《がうけう》す、
「勿論、我々労働者は社会主義の空論を排斥するのである、非戦論なんて云ふ書生論に捲《ま》き込まれるものとは違ふのである、我々|鍛工《かぢこう》の多数は現に鉄砲を造り軍艦を造つて飯を食つて居るものである」
 松本は絶叫せり、拍手喝采《はくしゆかつさい》の響は百雷落下と凝はれぬ、
 今は議長も思ひ決《きは》めて起ち立がれり「議長に於きましては、此の重大問題を即決致しますることは、少こしく軽率《けいそつ》の様にも考へます、依《よつ》て五名の調査委員を挙げて、一応調査することに致し度存じます、御異議が無くば――」
 松本が周章《あわて》て起たんとする時賛成々々の声四隅に湧出《わきだ》して議長の意見を嘉納し了《おほ》せり、
「あゝ、大事去れり」と行徳は涙を揮《ふる》つて長大息《ちやうたいそく》せり、
 菱川は髪|逆立《さかだ》てて怒号せり「我が労働者|未《いま》だ自覚せず」

      *     *     *

 階下の一室に兀座《こつざ》せる篠田は、俄《にわか》に起る階上の拍手に沈思の眼《まなこ》を開きぬ、
 隙《すき》洩《も》る雪風に燈火明滅、

     十九
 
 正午には尚《な》ほ間《ま》のあり、
 同胞新聞の楼上なる、編輯室《へんしふしつ》の暖炉《ストウブ》の辺《ほとり》には、四五の記者の立ちて新聞を猟《あ》さるあり、椅子に凭《よ》りて手帳を翻《ひるが》へすあり、今日の勤務の打ち合はせやすらん、
 足音あわただしく駆け込み来れる一人「諸君、――実に大変なことが出来《しゆつたい》した」
 其声は打ち顫《ふる》へて、其|面《かほ》は色を失へり、彼は吾妻俊郎なり、
「何だ、君、そんな泥靴のまゝで」と、立ちて新開を見居たる一人は眉を顰《ひそ》めぬ「電車でも脱線したと云ふのか」
「馬鹿言つてちや困まる、我社の危急存亡に関する一大事なのだ、我々は全然《まるで》、篠田の泥靴に蹂躙《じうりん》されたのだ――」吾妻の両眼は血走りて見えぬ、
「ナニ、篠田|様《さん》が如何《どう》なされたと云ふんだ」と、居合せる面々、異口同音に吾妻を顧みたり、
 吾妻は目を閉ぢ、歯を噛締《くひしめ》て、得堪へぬ悲憤を強ひて抑《おさ》へつ「諸君、僕は実に諸君に対する面目が無いです、――従来《これまで》僕は篠田先生に阿媚《あび》するとか、諂諛《てんゆ》するとかツて、諸君の冷嘲熱罵を被つたですが、僕は只《た》だ先生を敬慕する余りに、左様な非難をも受くることになつたのです、然るに諸君、僕は全く欺《あざむ》かれて居ました――」吾妻はハンケチもて眼を蔽《おほ》ひつ「僕が諸君の罵詈《ばり》攻撃を
前へ 次へ
全74ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング