》て暫時退席を要求致します」
 議席は騒《さわぎ》だてり、我々は真実を以て交はる者なれば、他の議会に見る如き忌避《きひ》或は秘密等の厭《いと》ふべき慣例を用ひざるべしとの議論|盛《さかん》なりしが、篠田はやがて起ち上がりつ、
「我輩も実に其議論の主張者でありますが、既に発議者よりの要求ある以上は、発議者をして充分に言はんとする所を尽《ことごと》くさしめん為め、謹《つゝしん》で自ら退席致します」一揖《いちいふ》して出で去れり、
 其の後影を一睨《いちげい》したる松本「諸君――我《わが》組合が尊敬して評議員の名誉をさへ与へたる篠田長二君が、何ぞ図《はか》らん、却《かへつ》て私利私慾の為めに我々の権利と幸福を売つて資本家党に降服したる証拠を捉《とら》へたのである」
 松本は議席を見過はせり、
 会衆は再び騒ぎ立てり「畜生」「馬鹿野郎」「除名せよ」「斬つて仕舞へ」等の声は一隅より囂々《がう/\》と起れり「誣告《ぶこく》」「中傷」「証拠を示せ」等の声は他の一隅より喧々《けん/\》と起れり、
「御指揮に及ばず、其証拠を御覧に入れるのです」と松本は手を揚げて之を制しつ「彼は愈々《いよ/\》山木剛造の長女梅子と結婚の内約|整《とゝの》ひ、伊藤侯爵が其|媒酌人《ばいしやくにん》たることを承諾したのである、彼は九州炭山坑夫同盟の真相を悉《ことごと》く大株主にして其重役なる山木に内通して、予防策を講ぜしめ、又た政府の狗《いぬ》となつて社会主義倶楽部及び我が組合の運動消息をば、一々府政へ密告して居るのである、今《い》ま幸《さいはひ》にして彼の内状を最も詳《つまびらか》にする、尤《もつと》も信用すべき人の口より其の報道を得たのは、天実に我々労働者の前途を幸ひするものと信ずるのである、依《よつ》て此《かく》の如き獅子身中の虫を退治せんが為めに本組合|先《ま》づ直《ただち》に彼を除名することの決議をして貰ひたい――緊急動議の要旨は是《こ》れである」
 松本は昂然《かうぜん》会衆を見廻して、自席に復せり、満場相顧みて語なし、
 議長浦和は徐《おもむ》ろに其席に起てり「松本君の動議は実に驚くべき問題でありまして、自分に於《おい》ては大《おほい》に心を苛《くるし》めて居りますが、就《つ》きましては――」
 議長の言|尚《な》ほ央《なかば》なるに、「議長」と呼《よん》で評議員席に起立したるは、平民週報主筆|行徳秋香《かうとくあきか》なり、彼は先刻来憤怒の色を制して、松本を睨視《げいし》しつゝありしが、今は最早《もは》や得堪へずして起ちたりしなり、満場|呼吸《いき》を殺して彼を見たり、彼は篠田と最も親交ある一人なればなり、
「松本君の只今の御説明は、我々の耳には何等の証拠をも与へたるものとは聞えない、我輩も篠田君の親友で、恐《おそら》く満場の諸君よりも同君の内状に詳《くはし》いであらうと思ふ、我輩は最も親交ある篠田君の一友人として、松本君の指摘されたる事実は、尽《ことごと》く無根の捏造説《ねつざうせつ》であることを断言します――抑《そもそ》も此の誣告《ぶこく》を試みたる信用すべき人物とは、何物でありますか」
 松本は猛然として、起てり「行徳君は僕を誣告者《ぶこくもの》と言はれた、怪《け》しからん、――諸君、僕が誣告者であるか否《いなや》は、公明正大なる諸君の判断に一任します、僕は只だ良心の命ずる所に従《したがつ》て此事を言ふのである」
「証人の名を言へ」と呼ぶものあり、
 声する方を松本は睨《にら》みつ「証人の名を言ふに及ばぬ、若《も》し諸君が僕を信用するならば、敢《あへ》て証人の姓名を問ふに及ばぬではないか」
 紛々たり、擾々《ぜう/\》たり、
「審判なしに宣告を下だすことは如何《いか》なる野蛮の法律も許《ゆ》るさぬ」と一隅に叫けぶものあり、
 松本はニヤリと冷笑を浮かべつゝ満場を見渡《みわ》たせり「諸君は証拠を要求せらるゝが、証拠を示さぬのは必竟《ひつきやう》彼に対する恩恵だ――諸君は彼を道徳堅固なる君子と信仰せられる様だ、恐ろしい君子があつたもんだ、芸妓買《げいしやかひ》を行《や》つて、自由廃業をさせて、借金を踏み倒ほさして、自宅《うち》へ引きずり込んで、其れで道徳堅固な君子と言ふんだ、成程|耶蘇教《ヤソけう》と云ふものは偉《え》らいもんだ」
 ヒヤ/\、大ヒヤなど頓狂《とんきやう》なる叫喚《けうくわん》は他の一隅に湧《わ》き上がれり、
 笑声ドツと四壁を動かしつ、

     十八の三

 此の光景《ありさま》を看《み》て取つたる松本常吉「議長、満場別に異議ないやうです、採決を願ひませう」
 憂色、面《おもて》に現然たる議長が何やらん唇《くち》を開かんずる刹那《せつな》「否《ノー》ツ」と一声、巨鐘の如く席の中央より響きたり、看《み》よ、菱川硬二郎は夜叉《やし
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