――節操は女性《をんな》の生命ですもの、王の権力も父の威力も、此の神聖なる愛情の花園を犯すことは出来ません、――此頃父が九州からの帰途で、伊藤侯と同車したとやらで、侯爵が媒酌人《ばいしやくにん》になられるからと、父が申すのです、まア何と言ふ穢《けがら》はしいことでせう、伊藤侯と云ふものは我々婦人に取つては共同の讐敵《かたき》ではありませんか、銀子さん、私が松島様の申込を拒絶する為めに、仮令《たとへ》私の父が破産する如き不幸に逢《あ》ひませうとも、私は決して節操を涜《けが》すやうな弱い心は起しません、父の財産は不義の結果です、私は富める不義の家に悩める心を抱《いだ》いて在《ある》よりも、貧しき清き家に楽しき団欒《だんらん》を望むで居るのです――銀子さん、何卒安心して下ださいな」
梅子の美しき面《おもて》は日の如く輝けり、
銀子は袖かき合はせて傾聴しつ「――梅子さん、貴嬢《あなた》ほんとに幸福ネ――私《わたし》羨《うらやま》しいワ」
其の語尾の怪しくも曇《くもり》を帯べるに、梅子は眸《ひとみ》を凝《こら》して之を見たり、
十七の六
「銀子さん、私の何処《どこ》に羨《うらや》ましいことがありますか、貴女こそ婦人中の最も幸福な方だと、私真実思ひますよ」
答なき銀子の長き睫毛《まつげ》には露の玉をさへ貫くに梅子はいよゝ怪《あやし》みつ「貴女、何かおありなすつて――」
「梅子さん」と銀子は始めて涙を呑みつ「――男と云ふものはほんとに厭《いや》なものだと思ひましてネ、そりや女の方に足らぬ所がありもしませうけれど――」
「けれど銀子さん、道時さんに何もおありなさるんぢや無《ない》でせう」
「梅子さん、私、貴嬢《あなた》だから何も角《か》もお話しますがネ――矢張有るんですよ――つまり、私の不束《ふつつか》故に、良人《をつと》に満足を与へることが、出来ないのですから、罪は無論私にありますけれど、――男も亦《ま》た余り我儘《わがまゝ》過ぎると思ひますの――梅子さん、是れは世界の男に普通のでせうか、其れとも日本の男の特性なのでせうか」
「けれど銀子さん、道時さんが不品行を遊ばすと云ふ様なことは無いでせう」
銀子は俯《うつむ》きて首を振りぬ、
良久《しばし》ありて銀子はホツと吐息しつ「梅子さん、ほんとに幸福と思つたのは、結婚後の一年|許《ばかり》でしたの、私の心が静実《おちつく》に連れて、次第に私を軽蔑《けいべつ》する様になるんですよ――折々はネ、私の為めに余儀なく此様《こんな》結婚をして一生不幸を見たなんて、残酷《ひどい》ことさへ言ふんですよ、――言はれて見れば私にも弱点があるから、言ひたいこともジツと耐《こら》へて居ますけれども、余り身勝手過ぎるぢやありませんかネ――それにネ、着物だの、何だのも、此頃《ちかごろ》は斯様《かう》云ふのが流行だなんて自分で注文するんですよ、何処《どこ》の流行《はやり》かと思へば、貴嬢、皆な新橋辺《しんばしあたり》のぢやありませんか――婦人《をんな》は矢張《やつぱ》り日本風の温柔《おとなし》いのが可《い》いなんて申してネ、自分が以前|盛《さかん》に西洋風を唱《とな》へたことなど忘れて仕舞つて私にまで斯様《こんな》丸髷《まるまげ》など結《ゆ》はせるんですもの、私耻づかしくて、口惜《くちお》しくて堪りませんの――」
銀子は落る涙|拭《ぬぐ》ひつゝ「それに梅子さん他《ほか》の方の妻君《おくさん》など不思議だと思ひますよ、男子の不品行は日本の習慣だし、特《こと》に外交官などは其れが職務上の便宜《べんぎ》にもなるんだからなんて、平気で在《いら》つしやるんですよ――梅子さん、私は嫉妬心《しつとしん》が強いと云ふのでせうか」
「嫉妬心――」と梅子も覚えず、顔|紅《あか》らめつ「如何《いか》なる人でも境遇に打《う》ち克《か》つと云ふことは余程困難ですから、私は日本の様な不道徳な社会に在《あ》る婦人は、とても男子《をとこ》から報酬を望むことは断念せねばならぬと思ひますの、受くるよりも与ふるが寧《むし》ろ幸福ぢやありませんか、貴女が全心を挙げて常に道時さんを愛して居なさるならば必ず慚愧《ざんき》して、昔日《むかし》に優《まさ》る熱き愛憎を貴女に与へなさる時が来るに違《ちがひ》ありません」
「アヽ、梅子さん、其れが真理なんでせうねエ――」
「銀子さん、ほんとに貴女《あなた》こそ幸福ねエ――何故ツて?――貴女は愛を成就《じやうじゆ》なされたぢやありませんか、現今《いま》の貴女は只だ小波瀾の中に居なさるばかりです、銀子さん何卒《どうぞ》、私を可哀さうだと思つて下ださい、――私の全心が愛の焔《ほのほ》で燃え尽きませうとも、其《それ》を知らせる便宜《たより》さへ無いぢやありませんか、此のまゝ焦《こ》がれて死にましても、アヽ
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