「それから梅子さん、如何《どう》なすつて」
と銀子はホヽ笑《ゑ》みつゝ促《うな》がすを梅子は首打ち振りつ、
「私、いや、貴女《あなた》はお弄《なぶ》りなさるんだもの――」
上気せる美くしき梅子のあどけなき面《かほ》を銀子は女ながらに惚《ほ》れ惚《ぼ》れと眺め「私が悪るかつたの、梅子さん、何卒《どうぞ》聴かして下ださいな」
「何だか可笑《をか》しいのねエ」と、梅子は羞《はづ》かしげにホヽ笑みつ「一昨々年の四月の初め、丁度《ちやうど》桜の咲き初《そ》めた頃なの、日曜日の夜の説教をなすつたのが――銀子さん、私、何だか――」
と面《かほ》背反《そむ》くるを、銀子は声低くめて「其方が篠田様であつたんでせう」
梅子は俯目《ふしめ》に首肯《うなづ》きつ「左様《さう》なんです、長く米国に留学なされた方で、今度永阪教会へ転会なされたと云ふんでせう、何様《どん》な人であらうと思つて居ますとネ、やがて講壇へお立ちになつたのが、筒袖《つゝそで》の極《きは》めて質朴な風采《ふうさい》で、彼《あ》の華奢《はで》な洋行帰の容子《ようす》とは表裏の相違ぢやありませんか、其晩の説教の題は『基督《キリスト》の社会観』と云《いふ》のでしてネ、地上に建つべき天国に就《つい》て、基督の理想を御述べになつたのです、今の社会の組織は全く基督の主義と反対の、利己主義を原則とするので、之を根本から破壊して新時代を造るのが、基督教の目的だと仰《おつ》しやるのです――初め私は、現在の社会の罪悪を攻撃なさる議論の余り恐ろしいので、殆《ほとん》ど身体《からだ》が戦慄《ふる》へる様でしたがネ、基督の平和、博愛、犠牲の御精神を、火焔《ほのほ》の様な雄弁でお演《の》べなすつた時には、何故《なにゆえ》とも知らず聴衆《きゝて》の多くは涙に暮れて、二時間|許《ばかり》の説教が終つた時には、満場|只《た》だ酔へる如き有様でした、――彼《あ》の時の説教は私「今でも音楽の如く耳に残つて居ますの――其晩は私、一睡もせずに考へましたの、そして基督の十字架の意味が始めて心の奥に理解された様に思はれましてネ、嬉しいとも、勇ましいとも訳《わか》らずに、心がゾク/\躍《をど》り立つて、思ふさま有りたけの涙を流したんですよ、インスピレーションと云ふのは、彼様《あゝ》した状態《さま》を言ふのぢやないか知らと思ひますの、其れからと云ふもの、昨日迄の無情の世の中とは打《うつ》て変《かはつ》て、慥《たしか》に希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、――そして日曜日が誠に待ち遠くて、教会が一層|懐《な》つかしくて――彼人《あのかた》の影が見えると只《たゞ》嬉しく、如何《どう》かして御来会《おいで》なさらぬ時には、非常な寂寞《せきばく》を感じましてネ、私始めは何のこととも気が着《つか》なかつたのですが、或夜、何でも五月雨《さみだれ》の寂《さび》しい夜でしたがネ、余り徒然《つれづれ》の儘《まゝ》、誰やらの詩集を見てる時|不図《ふと》、アヽ私《わたし》ヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分で覚《さと》りましたの、――」
涙に満てる梅子の眼は熱情に輝きつ、ありし心の経過一時に燃え出でて恍然《くわうぜん》として夢路を辿《たど》るものの如し、
銀子も我《わ》が曾《かつ》ての実験と思ひ較《くら》べて、そぞろに同情の涙|堪《た》へ難く「梅子さん貴嬢《あなた》の御心中は私|能《よ》く知ることが出来ますの」
「けれど銀子さん」と、梅子はうな垂《だ》れつ、「其の心の裡《うち》の喜びも束《つか》の間《ま》で、苦痛《くるしみ》の矢は忽《たちまち》ち私の胸に立つたのです、其れは貴女も御聞き及びになりましたやうに、私の父と篠田|様《さん》とが、仇敵《かたき》の如き関係になつたことです、けれど――銀子さん、私は篠田様の御議論が至当だと思ひました、私は常に父などの営利事業に不愉快を感じで居たのです、決して道理にも徳義にも協《かな》つたこととは思ひませんでしたが、篠田様の御議論を拝見して、始めて能《よ》く父等の事業の不道理不徳義なる、説明を得たのでした、其れで私は、彼人《あのかた》を良人《をつと》にすると云ふことは事情の許《ゆ》るさないものと思ひ諦《あきら》め、又た一つには、私の様な不束《ふつつか》な者が、彼様《あのやう》な偉い方の妻となりたいなど思ふのは、身の程を知らぬものと悟りましてネ、其れに彼人は既に家庭の幸福など云ふ問題は打ち忘れて、只だ偏《ひとへ》に主義の為めに御尽くしなさるのを知りましたものですから、私は心中に理想の良人と奉仕《かしづ》いて、此身は最早《もは》や彼人の前に献げましたと云ふことを慥《たしか》に神様に誓つたのですよ」
彼女《かれ》は心押し鎮《しづ》めつ「ですから銀子さん、私の心は決して孤独《ひとり》ではありません、
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