であると敬服して居るんですよ――けれど梅子さん、私|何程《どれほど》一人で心を痛めたか知《しれ》ないワ――貴嬢の阿父《おとつさん》は篠田さんを敵の如く憎んで居らつしやるんですとねエ――まア、何《ど》うしたら可《い》いんでせう――梅子さん」
「銀子さん、皆様《みなさん》は私の独身主義を全然《まるで》砂原の心かの様に思つて下ださいますけれど、――凡《すべ》ては神様が御承知です」梅子はハンケチもて眼を掩《おほ》ひつ「銀子さん貴女とお別れして三年の心の歴史を、私の為めに聞いて下ださいますか」
十七の四
「梅子さん、何卒《どうぞ》聴かして頂戴」
梅子は暫《し》ばし心に談話の次序《じじよ》整へつ、「学校時代の私は、銀子さん、貴女|能《よ》く御存《ごぞんじ》下ださいますわねエ――彼《あ》の一時バイロン流行の頃など、貴女を始め皆様《みなさん》が切《しき》りに恋をお語りなさいましたが、何《どう》したわけか私には、其の興味を感ずることが出来ませんでしたの、貴女に疑はれたことなども私|能《よ》く記憶して居りますよ――私も折々自分で自分を怪しんだこともありますの、私の心が不健全であるのでは無からうか、愛情と云ふものを宿《や》どさない一種の精神病のではあるまいかと――けれど私は只だ亡き母を懐《おも》ひ、慕ひ想像する以外に、如何《いか》にしても私の心を転ずることが成らなかつたのです――皆様能く男子の集会などへ行《い》らつしやいましたわねエ――あら、銀子さん、貴女のこと言ふのぢやなくてよ――けれど私の楽《たのしみ》は日曜に、青山の母の墓に参詣して、其れから永阪の教会へ行つて、母の弾《ひ》いた洋琴《オルガン》の前に座《す》わることの外は無かつたのです、私の文章も歌も何時も母のことばかりなんですから、貴嬢の思想は余り単調だと、先生にお叱《こごと》を受《うけ》ましたの――其れから学校を卒業する、貴女は菅原様《すがはらさん》へ嫁《いら》つしやる、他の人々《かたがた》も其《そ》れ其《ぞ》れ方向をお定《さだめ》になるのを見て、私も何が自分に適当した職分であらうかと考へたのです――貴女に御相談したことがあつたでせう――貴女も賛成して下だすつたもんですから、私は貧民の児女《こども》を教育して見たいと思ひましてネ――亡母《はゝ》の日記などの中にも同じ教育を行《や》るならば、貧乏人の児女《じぢよ》を教へて見たいと云ふことが沢山《たくさん》書いてあるもんですからネ――其れを父に懇願したのです、けれど銀子さん、貴女も御承知の如き私の家庭でせう、父は私が実母《はゝ》の顔さへ知らないのを気の毒に思つて居ます所から、余程私の願ひに傾いて呉れましたけれど……後には父から私に頼む様にして、其れを思ひ止まつて呉れよと言ふのですもの――私は、銀子さん其時《そのとき》始めて世の中に失望と云ふことの存在を実験したのです」
「銀子さん」と梅子は語を継《つ》ぎつ「其頃私は貴女《あなた》の曾《かつ》ての傷心《なげき》に同情しましたの、何時でしたか、貴女は夜中に私の寄宿室《へや》に来《いら》しつて仰《おつ》しやつたことがありませう、――若《も》し如何《どう》しても菅原様へ嫁《ゆ》くことが出来ないならば、私は一旦《いつたん》菅原様へ献げた此の聖《きよ》き生命《いのち》の愛情を、少しも破毀《やぶ》らるゝことなしに抱《いだ》いた儘《まゝ》、深山幽谷へ行つて終《しま》ふ心算《つもり》だつて――」
「あら梅子さん」と銀子は面《かほ》赧《あか》らめつ「貴女も思ひの外《ほか》、人が悪くつてネ――」
「左様《さう》ぢやありませんよ」と、梅子も思はず片頬《かたほ》に笑みつ「只だ私も其時始めて、貴女と同じ様な痛苦を感じたと云ふ迄のことお話するんぢやありませんか――それで銀子さん、私は全然《まるで》砂漠《さばく》の中にでも居る様な寂寞《せきばく》に堪へないでせう、而《さう》すると又た良心は私の甚《はなは》だ薄弱であることを責めるでせう、墓所《はか》へ詣《まゐ》りましても、教会へ参りましても、私の意気地《いくぢ》ないことを叱る様な亡母《はゝ》の声が聞えるぢやありませんか、あゝ寧《いつ》そ死んだならば、斯様《こんな》不愉快な苦境から脱れることが出来ようなどと、幾度《いくたび》思ひ浮んだか知れませんよ――斯《か》う云ふ厭《いや》な月日を送つて、夜も安然に夢さへ結ぶことなしに思ひ悩んで居た時へ私は――銀子さん――何とも知れない一種の感動に打たれましたの――」
言ひ渋《し》ぶる梅子の容子《ようす》に銀子は嫣然《えんぜん》一笑しつ「篠田|様《さん》に御会ひなすつたと仰《おつ》しやるんでせうツ」手を挙げて思ふさま、ビシヤリと梅子の膝《ひざ》を打てり、
梅子は真紅《まつか》になりて俯《うつむ》きぬ、
十七の五
前へ
次へ
全74ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング