ふんでせう、梅子さん、貴嬢《あなた》が地獄の子にでも生れ変つて来なすつたのを見た上でなくては、私は仮令《たとひ》道時の言葉でも、信用することが出来ないんです」
「銀子さん、姉さん、――有難う――」梅子は目を閉ぢて涙を堰《せ》きぬ、
十七の三
「けどもネ、梅子さん、」と銀子は容《かたち》を改《あらた》めつ「貴嬢《あなた》は飽《あ》く迄《まで》も独身主義を遣《や》り徹《とほ》さうと云ふ御決心なの」
梅子は只《た》だ首肯《うなづ》きつ、
「私《わたし》ネ、梅子さん、貴嬢《あなた》の独身主義には、心《しん》から同情を持つてるんですよ――貴嬢の家庭の御事情は私も能《よう》く存じて居るんですからネ――けれど私、梅子さん、怒りなすつちや厭《いや》よ、日常《いつも》さう思《おもふ》んですの、貴嬢の深い心の底にほんとに恋と云《いふ》ものが無《ない》んだらうかと――学校《こゝ》に居た頃の貴嬢のことは私、能《よ》く知つててよ、貴嬢の御心は、只《た》だ亡き阿母《おつかさん》を懐《おも》ふ麗《うる》はしき聖《きよ》き愛に溢《あふ》れて、外には何物をも容《い》れる余地の無《なか》つたことを――皆さんが各々《てんでに》理想の男《ひと》を描いて泣いたり笑つたり、欝《うつ》したりして騒いで居なさる時にでも、真正《ほんたう》に貴嬢ばかりは別だつたワ――他人様《ひとさん》のことばかり言へないの、私だつてもネ、梅子さん、笑つちや厭よ、道時のことでは何程《どんなに》貴嬢の御世話様になつたか知れないワ、私、貴嬢の御恩を忘れたこと有りませんよ――彼頃《あのころ》の貴嬢の御面《おかほ》は全く天女でしたのねエ――けれど梅子さん、今ま貴嬢を見ると、何処《どこ》とも無く愁《うれひ》の雲が懸《かゝ》つて、時雨《しぐれ》でも降りはせぬかの様に、憂欝《いううつ》の色が見えるんですもの、そりや梅子さん貴嬢ばかりぢやない、誰でも、齢《とし》と共に苦労も増すに定《きま》つて居ますがネ、只《た》だ私、貴嬢の色に見ゆる憂愁《いうしう》の底には、女性《をんな》の誰も免《まぬが》れない愛情の潜んで居るのぢや無からうかと思ふんですよ――私などは斯様《こんな》軽卒《がさつ》なもんですから、直ぐ挙動に顕《あら》はして仕舞《しまひ》ますがネ、貴嬢の様に強意《しつかり》した方は、自ら抑へるだけ、苦痛も一倍|酷《ひど》いだらうと察しますの――」
俯《うつむ》ける梅子に、銀子は身をスリ寄せつ「若《も》し、梅子さん、御気に障《さは》つたなら赦《ゆる》して頂戴《ちやうだい》な、私《わたし》只だ気になつて堪らないもんですから、心の有りたけを言ふのですよ――私だつて道時のことでは何程《どんな》耻づかしいことでも皆な打ち明けて、貴嬢に御相談したでせう、其れでこそ始めで姉妹《きやうだい》の契約の実《じつ》があると言ふんですわねエ――梅子さん後生《ごしやう》ですから貴嬢《あなた》の現時《いま》の心中を語つて下ださいませんか」
「銀子さん」と良久《しばし》ありて梅子は声|顫《ふる》はしつ「四年前の貴女の苦痛を、今になつて始めて知ることが出来ました――」
「能《よ》く言うて下ださいました梅子さん」と銀子は嬉しげに「今度は私《わたし》が先年の御恩返しに何様《どんな》奔走でも致しますよ――梅子さん、ツイ、御名を知らして下ださいな」
「銀子さん、貴女《あなた》の御親切は御礼の申しやうもありませんが、到底《たうてい》事情の許さないのですから、只だ此れだけは私に取つて秘密の一ツに許して下ださいませんか――貴女に打ち明けないと云ふのは、私も何様《どんな》に心苦しいか知れないのですけれど――」梅子は唇を噛《か》んで声を呑《の》みぬ、
銀子は暫《し》ばし思案に暮れしが、独り心に首肯《うなづ》きつ「――梅子さん、私知つてますよ」
梅子は愕然《がくぜん》として銀子を見たり、
「若し梅子さん、間違つてたなら勘弁して下ださいな――あの、篠田長二さんて方ぢやありませんか――」言ひつゝ銀子は凝乎《じつ》と梅子を見たり、梅子は胸を押へて復《ま》た只だ俯《うつむ》きぬ、
「梅子さん、私、それを或る方から聞いたのですよ――ほんとに不思議なものですねエ、自分では夢にも洩らしたことの無い秘密を、世間が何時《いつ》か知つてるんですもの――慥《たしか》に宇宙の神秘《ミステリー》なのねエ――私、梅子さん、此の風説は心に信じたの、何故《なぜ》と云ふに篠田さんて方の御性質や其の御行動が、如何にも貴嬢《あなた》の嗜好《しかう》に適合してるんですもの――梅子さん、私は未《ま》だ篠田さんをお見掛け申したことが無いのです、けども私それと無く道時に尋ねて見ましたの、道時は是《こ》れ迄も能《よ》く御目に懸るさうでしてね、大層|讃《ほ》めて居りましたの、恐るべき偉い人物
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