之を機会に梅子は椅子《いす》を離れつ「失礼」と一揖《いちいふ》して温柔《しとや》かに出で行けり、

     十七の二

 第五号教室のピヤノの側《わき》に人待ち顔なる大丸髷《おほまるまげ》の若き婦人は、外務書記官菅原道時の妻君銀子なり、扉しとやかに開かれて現はれたる美しき姿を見るより早く、嬉しげに立ち上がりつ、「オヽ梅子さん」
「銀子さん」
 相見て嫣然《えんぜん》、膝《ひざ》つき合はして椅子《いす》に座せり、
「梅子さん、ほんとに久濶《しばらく》ですことねエ、私、貴嬢《あなた》に御目に懸《かゝ》りたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れでは何《どう》やら物足らない心地《こゝち》しましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が御来会《おいで》になると思ひましたからネ、差繰つて参りましたの」
「私《わたし》もネ、銀子さん、此頃|切《しき》りに貴女《あなた》が懐《なつか》しくて堪らないで居ましたの、寧《いつ》そ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが困難《むつかし》いさうですから、菅原様も定めて御多用で在《いら》つしやらうし、貴嬢《あなた》にしても矢張《やつぱ》り御屈托で在《いら》つしやらうと遠慮しましてネ」
「あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで矢張《やつぱり》其様事《そんなこと》を仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ」
「銀子さん、左様《さう》ぢやありませんよ」
 銀子は熟々《つくづく》と梅子の面《かほ》打ちまもり居たりしが「梅子さん、貴嬢《あなた》はほんとに御憔悴《おやつれ》なすツたのねエ、如何《どうか》なすつて――」
「否《いゝえ》、別に如何《どう》も致しませんの」
「けども、何か御心配でもおありなさらなくて」
「否《いゝえ》――心配と云ふ程のこともありませんがネ――」
「心配と云ふ程で無くとも、何か御在《おあ》りなさるでせう」
 と銀子は顔差し付けて声打ちひそめ「私《わたし》、貴嬢《あなた》に御聴《おきゝ》せねば安心ならぬことがあるんですよ――梅子さん、貴嬢、ほんとに彼《あ》の海軍の松島|様《さん》と御約束なさいまして――」
 梅子は目を閉ぢて無言なり、
「梅子さん、私《わたし》ネ、其を道時から聴きましても、貴嬢《あなた》から直接に聴かなければ安心が出来ないんですもの」
「銀子さん、貴女まで其様《そんな》風評を御信用下ださるんですか――」涙ハラ/\と膝に落ちぬ、
 銀子は梅子の手を握れり「梅子さん、貴嬢は私が、其様《そんな》風評を信用するものと御疑ひ下ださいますの――」
 梅子は握られし銀子の手を一ときは力を籠《こ》めて握り返へしつ「否《いゝえ》、銀子さん、私は学校《こゝ》に居た時と少しも変らず、貴嬢を真実の姉と懐《おも》つて居るんです」
「梅子さん、有難う――何《ど》うしたわけか、初めて入学した時から貴嬢とは心が会つて、私が一つ年上ばかりに貴嬢の姉と呼ばれる様になつたことは、何程嬉しいとも知れないのです、道時が何か私の非難など致します時には、併《し》かし私の妹《いもと》に山木梅子と云ふ真の女丈夫《ぢよぢやうぶ》が在りますよと誇つて居るのです――丁度《ちやうど》昨年の十月頃でしたよ、外交問題が八釜敷《やかましく》なり掛けた頃と思ひますから――道時が晩餐《ばんさん》の時、冷笑《わら》ひながら、お前の御自慢の梅子さんも、到頭《たうとう》海軍の松島の所へ行くことになつたと言ひますからネ、私は断然之を打ち消したのです、梅子さんも御自分で是れならばと信じなさる男子《ひと》を得なすツたならば、進《すゝん》で御約束もなさらうし、又た強《し》ひても御勧め申すけれど、軍人は人道の敵だとまで思つて居なさる梅子さんが、特《こと》に不品行不道徳な松島様などに御承諾なさる筈《はず》が無い、又た若《も》し其れが真実ならば必ず梅子さんから、御報知《おしらせ》がある筈だと頑張《ぐわんば》つたのですよ、スルと憎《に》くらしいぢやありませんか、道時が揶揄《からかい》半分に、仮令《たとへ》梅子さんからの御報知は無くとも、松島の口から出たのだから仕様《しやう》が在《あ》るまい抔《など》と言ひますからネ、彼様《あんな》松島様などの言ふことが何の証拠になりますと拒絶《はねつけ》て遣《や》りましたの、其《それ》ツきり道時も何も言ひませんでしたがネ、昨日ですよ、外務省《やくしよ》から帰りましてネ、服も更《あら》ためずに言ふんです、梅子さんの結婚談も愈々《いよ/\》進んで、伊藤侯が媒介者となられ、近日中に式を挙げらるゝさうだと、大威張に言《いふ》ぢやありませんか、私には如何《どう》しても解らないのです、相手が松島様で、媒介が伊藤侯と云
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