#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《きしや》は停《とま》りぬ、
「オヽ、もう品川ぢや、浜子」と侯爵は少女の手を採《と》りて急がしつ「今夜は杉田の別荘に一泊するから失敬する」と言ひ棄てたるまゝ悠然《いうぜん》降り立ちて、闇《やみ》の裡《うち》へと影を没せり、
窓に凭《よ》りて見送り居たる松島は舌打ちつ「淫乱爺《いんらんおやぢ》の耄碌《まうろく》ツ」
十七の一
麹町《かうぢまち》は三番丁なる清風《せいふう》女学校には、今日しも新年親睦会、
校友の控所に充《あ》てられたる階上の一室には、盛装せる丸髷《まるまげ》、束髪《そくはつ》のいろ/\居並びて、立てこめられたる空気の、衣《きぬ》の香に薫《かを》りて百花咲き競《きそ》ふ春とも言《いふ》べかりける、
中央の椅子に懸《かゝ》りたる年既に五十にも近からんと思はるゝ麦沢教授、小皺《こじわ》見ゆる頬辺《ほゝのあたり》に笑《ゑみ》の波寄せつ「皆さんが立派な奥様におなりなすつたり、阿母《おつか》さんにおなりなすつた御容子《ごようす》を拝見する程、私共《わたしども》に取つて楽《たのしみ》は御座んせんのね、之を思ふと私などは能《よ》くまア腰が屈《まが》つて仕舞はないと感心致しますの――否《いゝ》エ、此頃は、もう、ネ、老い込んで仕様《しやう》がありませんの、自分ながら愛想が尽きる程なんですよ――斯《か》う御見受け申した所、夏野様の旦那様は内務の参事官、秋葉様のは衆議院議員、冬田様のは日本銀行の課長さん、春山様のは陸軍中尉、蓮池様のは大学数授、何殿《どなた》も国家の大任ですねエ、桜井様のは留学中で御帰朝の後は医学博士、松村様のは弁護士さん――」
と、次第に読み上げ行きしが、偖《さて》其次席に列《つら》なれる山木梅子が例の質素の容子《ようす》を見て、暫《しば》し躊躇《ためら》ひつ「山木様は独立で、婦人社会の為に御働《おはたらき》なさらうと云ふ御志願で、特《こと》に阿父《おとつさん》は屈指の紳商で在《いら》つしやるのですから」
と、相当なる理由を発見して頌徳表《しようとくへう》を呈したる時、春山と呼ばれたる陸軍中尉の妻女「あら、麦沢先生、山木様は疾《と》くに御約束で、最早《もう》近々に御輿入《おこしい》れになるんですよ」と、黄色な声して嘴《くち》を容《い》れぬ、
「左様《さう》ですか」と、麦沢女教授は円《まる》くしたる眼《まなこ》を、忽《たちま》ち細くして笑《ゑ》みつくろひ、「山木様、まア、お目出度《めでたう》御座います、存じませんでしたもんですから、ツイ、失礼致しましてネ、――シテ、春山様、何殿《どなた》」
「先生が御存《ごぞんじ》無《なか》つたとは驚きましたねエ」と春山は容子つくろひ「あの、海軍大佐の松島様へ」
「オヽ、あの松島さんへ」と女教授は驚きしが「実権海軍大臣などと新聞で拝見する松島さんへ――左様《さう》ですか、山木様、貴嬢《あなた》にはほんとに御似合の御縁組ですよ」
一座の視線は皆な沈黙せる梅子の面上に集まりぬ、
松村と言へる弁護士の妻女は、独り初めより怪しげに打ち目《ま》もり居たりしが「先生、私《わたし》も山木様の御縁談の御噂《おうはさ》をお聞き申しましたが、只今の御話とは少《す》こし違ふ様ですよ」
「エ、松村様、ぢや何殿《どなた》と仰《おつ》しやるのです」
松村は梅子の顔恐る/\見やりながら「間違ひましたら山木様、御免下ださいな――あの、同胞新聞社の篠田様へ――」
麦沢教授は反歯《そつぱ》剥《む》き出してハツハと打ち笑へり「松村様、何を仰《おつ》しやる、山木様が何で彼様男《あんなひと》の所などへお嫁《い》でになるもんですか、私《わたし》も何時でしたか、何かの席で篠田と云ふ人見ましたがネ、貴女《あなた》、彼《あれ》は壮士ですよ、何《どう》して彼様《あんな》貧乏人と山木様が御結婚出来ますか」
「いゝえネ、先生、只だ私は山木様の教会と関係のある人から聞いたのですから――」
と松村の穏かに弁疏するを、彼《か》の春山はシヤちやり出でつ「私《わたし》は良人《やど》から聞きましたのです、現に松島様が御自分で御披露になりましたさうで、軍人社会では誰知らぬものも無いので御座います」
曰《いは》く松島自身の披露、曰く軍人社会の輿論《よろん》而《しか》して之を言ふものは、現に陸軍中尉の妻女、何人か又た之を疑はん「山木様はタシカ軍人はお嫌《きらひ》の筈《はず》でしたがネ」「独身主義の御講義を拝聴した様にも記憶致しますが」「オールド、ミスも余り立派なものでありませんからね」、など、聞えよがしの私語《さゝやき》も洩れぬ、
梅子が余りの沈黙に、一座いたくシラけ渡りぬ、
扉開かれて、歴年の老小使、腰打ち屈《かが》めつ「山木様――菅原の奥様が五号室に御待ち受けで御座います
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