気の毒なことしたとだに思つて貰ふことがならぬではありませんか――何と云ふ不幸な私の鼓膜《こまく》でせう、『我は汝を愛す』と云ふ一語の耳語《さゝやき》をさへ反響さすることなしに、墓場に行かねばなりませんよ――」
「梅子さん」突如銀子は梅子の膝《ひざ》に身を投げ出し、涙に濡れたる二つの顔を重ねつ「梅子さん――寄宿舎の二階から閃《きら》めく星を算《かぞ》へながら、『自然』にあこがれた少女《をとめ》の昔日《むかし》が、恋しいワ――」
ワツと泣き洩《も》る声を無理に制せる梅子は、ヒシとばかり銀子を抱《いだ》きつ、燃え立つ二人の花の唇、一つに合して、暫《し》ばし人生の憂《う》きを逃れぬ、
遠音に響くピヤノとウァイオリンの節面白き合奏も、神の御園《みその》の天楽と聴かれて、
十八の一
国民の耳目《じもく》一に露西亜《ロシヤ》問題に傾きて、只管《ひたすら》開戦の速《すみや》かならんことにのみ熱中する一月の中旬、社会の半面を顧《かへりみ》れば下層劣等の種族として度外視されたる労働者が、年々歳々其度を加ふる生活の困苦惨憺《こんくさんたん》に、漸《やうやく》く目を挙げて自家の境遇を覚悟するに至り、沸騰《ふつとう》せんばかりの世上の戦争熱も最早《もはや》や、彼等を魔酔《ますゐ》するの力あらず、彼等の心の底には、「戦争に全勝せよ、夫《さ》れど我等は益々|苦《くるし》まん」との微風の如き私語《さゝやき》を聴く、去れば九州炭山坑夫が昨秋来増賃請求の同盟沙汰伝はりてより、同一の境遇に同一の利害を感ずる各種の労働者協同して、緩急相応ぜんとの要求日に益々激烈を加へ、四月三日を以て東京市に第一回労働者大会議を開くべきこととはなりぬ、
其の中堅は社会主義|倶楽部《クラブ》にして、篠田長二の同胞新聞は実に其の機関たり、
歯牙《しが》にも掛けずありける九州炭山坑夫の同盟罷工今や将《まさ》に断行せられんことの警報伝はるに及《およん》で政府と軍隊と、実業家と、志士と論客と皆《み》な始めて愕然《がくぜん》として色を失へり、声を連《つら》ね筆を揃《そろ》へて一斉《いつせい》に之を讒謗《ざんばう》攻撃して曰《いは》く「軍国多事の隙《げき》に乗じて此事をなす先《ま》づ売国の奸賊を誅《ちゆう》して征露軍門の血祭《ちまつり》せざるべからず――」
* * *
労働者の大会準備の為めに、今宵《こよひ》しも上野|鶯渓《うぐいすだに》なる鍛工《かじこう》組合事務所の楼上に組合員臨時会開かれんとするなり、寒風|膚《はだ》を裂いて、雪さへチラつく夕暮より集まりたるもの既に三百余名、議長の卓上には書類|堆《うずたか》く積まれて開会の鈴《ベル》を待ちつゝあり、
此時階下の事務室、扉を鎖《とざ》して鳩首《きうしゆ》密議する三個の人影を見る、目を閉ぢて沈黙する四十五六とも見えて和服せるは議長の浦和|武平《ぶへい》、眉を昂《あ》げて咄々《とつ/\》罵《のゝし》る四十前後と覚《おぼ》しき背広は幹事の松本常吉、二人を対手《あひて》に喋々《てふ/\》喃々《なん/\》する未《ま》だ廿六七なる怜悧《れいり》の相、眉目の間に浮動する青年は同胞新聞の記者の一人|吾妻俊郎《あづまとしらう》なり、
松本は拳《こぶし》を固めて卓《つくゑ》を打ちつ「実に怪《け》しからん奴だ、其事は僕も予《あらかじ》め行徳君に注意したことがあつたが、行徳君は無雑作《むざふさ》に打ち消して仕舞《しま》つた――八ツ裂きにしても此の怨《うらみ》は霽《は》れない」
「然《し》かし、松本君、余りに意外な報告なので私は何分にも信用出来ませぬで――」と、浦和は瞑目《めいもく》のまゝ思案に沈めり、
「イヤ、浦和さん」と吾妻は乗出で「信用なさらぬのは御道理《ごもつとも》です、斯《か》く云ふ僕が最初は如何《どう》しても出来なかつたですから、――御承知の如く僕は従来《じらい》篠田を殆《ほとん》ど崇拝して居たんでせう、彼の秘書官の如く働くので、社員中に大分不平|嫉妬《しつと》の声が盛《さかん》なのです、けれど一身の毀誉褒貶《きよはうへん》の如《ごと》きは度外に措《お》きて、只《た》だ篠田の為めに一臂《いつぴ》の労を執《と》ることを無上の満足として居たのです――然《しか》るに段々彼の内状を詳《つまびらか》にすると、実に其の裏面に驚くべき卑劣《ひれつ》の野心を包蔵することが聊《いさゝ》か疑《うたがひ》ないので――御両君、僕は実に失望落胆の為め殆《ほとん》ど発狂するばかりに精神を痛めたです――乍併《しかしながら》更に退《しりぞい》て考へると、是《こ》れは徒《いたづ》らに愁歎《しうたん》して居るべき時でない、僕の篠田を崇拝したのは其の主義に在るのだ、彼が主義の仮面を被《かぶ》つて、却《かへつ》て我等同志を売ることを目
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