9−6]車《きしや》は既に淡《あは》き燈火《ともしび》を背負うて急ぐ、
 ポケットより巻莨《たばこ》取り出して大佐は点火しつ「閣下、又《ま》た近日元老会議ださうで御座りまして、御苦労に存じます」
「松島、実に困らせをるぞ、権兵衛に少《す》こし確乎《しつかり》せいと言うて呉れ」
「閣下、其れは私共《わたくしども》の方で申上げたいと存じまする所です、ヤ、モウ、先刻も横須賀へ参れば、艦隊の連中からは、大臣が弱いの、軍令部が腰抜だのと勝手な攻撃を受けます、元老方からは様々御注文が御座りまする、民間からは出法題《ではふだい》な非難を持ち掛ける、斯様《こんな》割の悪い役廻りは御座りませぬ」言ひつゝ、烟草《たばこ》の煙の間より、浜子の姿をチラリ/\と、横目に睨《にら》む、
 大佐の目遣《づか》ひに気つきたる侯爵「や、松島、爰《こゝ》に居る山木は君の舅《しうと》さうぢやナ、――先頃誰やらが来て切《しき》りに其の噂《うはさ》し居つた、彼《あ》の様子では兎《と》ても尊氏《たかうぢ》を長追ひする勇気があるまいなどと嫉妬《しつと》し居つたぞ、非常な美人さうぢやな、何時《いつ》ぢや合衾《がふきん》の式は――山木、何時ぢや、我輩も是非客にならう」
 山木は頭掻きながら「ハ、未《いま》だ何時と確定致す所にも運び兼て居りまする様な次第で――何分にも時局の解決が着きませぬでは――」
「ハヽヽヽヽ、時局と女とは何の関係もあるまい、戦争《いくさ》の門出《かどで》に祝言《しうげん》するなど云ふことあるぢやないか、松島も久しい鰥暮《やもめくらし》ぢや、可哀さうぢやに早くして遣れ――それに一体、山木、誰ぢや、媒酌《ばいしやく》は」
「ハ、表面《おもて》立つた媒酌人と申すも、未《いま》だ取り定《さだ》めたと申す儀にも御座りませぬ、何《いづ》れ其節|何殿《どなた》かに御依頼致しまする心得で――」
「フム、其りや幸《さひはひ》ぢや、我輩一つ媒酌人にならう、軍人と実業家の縁談を我輩がする、皆《みん》な毛色が変つてて面白ろからう、山木、どうぢや」
「ハ、閣下が御媒酌下ださりまするならば、之に越したる光栄は御座りませぬが――」
「松島、君の方は何《どう》ぢや」
 苦笑しつゝ烟《けむり》吹かし居たる大佐「御厚意は感謝致しまするが、其れは最早《もう》御無用です」
「ナニ、無用ぢや、松島」
 大佐は冷《ひやゝ》かに片頬《かたほ》に笑みつ「はア、閣下、山木には無骨《ぶこつ》な軍人などは駄目ださうです、既に三国一の恋婿《こひむこ》が内定《きま》つて居るんださうですから」
「フウ、外《ほか》に在《あ》るのか、其りや一ときは面白い、山木、誰ぢや、君の恋婿と云ふのは」
 剛造は顔中撫で廻はして「閣下、其れは松島さんのお戯れで、決して外に約束など有る義では御座りませぬが――」
 殆《ほとん》ど困却の山木を、松島は愉快げに尻目に掛けつ「然らば閣下、山木の恋婿《こひむこ》をば自分から御披露に及びませう――日本社会党の領袖、無政府主義の張本《ちやうほん》、同胞新聞主筆篠田長二君と仰せられるのださうでツ」
「ヤ、松島さん」と色を失つて周章する剛造を、侯爵は稍々《やゝ》垂れたる目尻にキツと角立てて一睨《いちげい》せり、
「閣下、其れを御信用下だされましては、遺憾《ゐかん》千万に御座りまする、全く松島様の誤解で御座りますから――」
「松島、事実相違ないか、何《ど》うぢや」
 大佐は冷然たり「閣下、私《わたくし》も帝国軍人で御座りまする」
「フム」と軽く首肯《うなづ》きて侯爵は又た山木の面《おもて》を睨《にら》めり、
「閣下、其れは余りに残酷なことで御座りまする、私《わたくし》が社会党などに娘を遣《や》ることが出来まするものか出来ませぬものか、少し御賢察を願はしう存じまする、――近い御話が、閣下、今回《このたび》炭山の坑夫同盟でも明かでは御座りませぬか、九州の方へは菱川だとか何だとか云ふ二三人の書生を遣《や》つて奇激な演説などさせて、無智|蒙昧《もうまい》な坑夫等を煽動《せんどう》させ、自分は東京に居て総《すべ》ての作戦計画をして居るので御座りまする、皆《みん》な篠田長二の方寸から出でまするので――非戦論など唱《とな》へて見ても誰も相手に致しませぬ所から、今度は石炭と云ふ唯一の糧道を絶つ外ないと目星を着けて、到底《たうてい》相談のならない法外な給料増加の請求を坑夫等に教唆《けふさ》し、其の請求の貫徹を図《はか》ると云ふ口実の下《もと》に、同盟罷工を行《や》らせると云ふのが、篠田の最初からの目的なので御座りまする、悪党とも国賊とも、名の付けられた次第では御座りませぬ、――閣下、何《どう》して私《わたし》が其様《そん》なものへ娘を遣《や》ることが出来ませう――其れで坑夫共の生活を支《さゝ》へる為めに亜米利加《アメリカ
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