りまして――」
 空嘯《そらうそぶ》ける侯爵「金儲《かねまうけ》のことなら、我輩《わがはい》の所では、山木、チト方角が違ふ様ぢヤ――新年早々から齷齪《あくせく》として、金儲《かねまうけ》も骨の折れたものぢやの」
「閣下、実は旧冬から九州へ出掛けましたので――或は新聞上で御覧になりましたことかとも愚察|仕《つかまつ》りまするが、此度《このたび》愈々《いよ/\》炭山坑夫の同盟罷工が始まりさうなので御座りまして――」
「ふウむ」と侯爵は葉巻《シガー》の煙《けむ》よりも淡々《あは/\》しき鼻挨拶《はなあしらひ》、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、
 浜子は彼方《あちら》向いて、遙《はる》か窓外の雪の富士をや詮方《せんかた》なしに眺《なが》むらん、

     十六の二

「閣下、近来社会党がナカ/\跋扈《ばつこ》致しまして、今回坑夫の同盟なども全く、社会党の煽動《せんどう》から起つたので御座ります、此分では将来何の事業でも発達上、非常な妨碍を蒙《かうむ》りまするわけで、何卒《なにとぞ》此際厳重に撲滅策《ぼくめつさく》を執《と》らるゝ様、閣下より一言、政府へ御指図下ださる義を懇願致しますので――」
 伊藤侯爵は空吹く風と聞き流しつ「二三の書生輩の空理空論を、左迄《さまで》恐るゝにも足らぬぢやないか、況《ま》して労働者などグヅ/\言ふなら、構まはずに棄てて置け、直ぐ食へなくなつて、先方《むかう》から降参して来をらう」
「所が閣下、何《ど》うやら亜米利加《アメリカ》の労働者などから、内々運動費を輸送し来るらしいので御座りまして、――若《も》し外国の勢力が斯様《かやう》なことから日本へ這入《はひ》つて来るやうになりませうならば、国体上容易ならぬ義かと心得まするので」
「ナニ、山木、別段不思議無いではないか、労働者が労働者の金を輸入するのと、君等実業家連が外資輸入を遣り居るのと、何の違《ちがひ》もあるまいではないか」
「では御座りまするが、閣下」と、山木は額を撫《な》でつ「探知致しましたる所では、近々東京に労働者等の大会を開いて、何か穏かならぬ運動を企てまする様子で、何《ど》うせ食ふことが出来ぬ乱暴漢《らんぼうもの》の集りで御座りまするから、何事が出来《しゆつたい》せんも図《はか》られませぬ次第で――それに新聞と云ふ程のものでも御座りませぬが、兎《と》に角《かく》同胞新聞など申す毒筆専門の機関を所持致し居りまするから、無智無学の貧民共は、ツイ誘惑されぬとは限りませぬ、尤《もつと》も警察が少こし確乎《しつかり》して居りまするならば彼れ等程のものに別段心配も御座りませぬが、何分にも閣下が総理の御時代とは違ひまして、警察の方なども緩漫《くわんまん》極《きはま》つて居りまするから――」
 薄き眉ビリと動くと共に、葉巻《シガー》の灰|震《ふる》ひ落としたる侯爵「山木、其の同胞新聞と云ふのは、篠田何とか云ふ奴の書き居《を》るのぢやないか」
「ハ、篠田長二と申すので、閣下|御存《ごぞんじ》で御座りまするか」
「否《い》や、顔は見たことないが、実に怪《け》しからん奴ぢや、我輩のことなど公私に関はらず、攻撃を――」
 と言ひさして、浜子を見やれば、浜子は艶《なまめ》かしく仰ぎ見つ、「御前《ごぜん》、あの私《わたし》のこと悪口書いた新聞でせう、御前、何卒《どうぞ》讐《かたき》討《う》つて下ださいな」
「ウム」と首肯《うなづ》きたる侯爵「先年、彼等が社会民主党を組織した時、我輩は末松に命《いひつ》けて直《ただち》に禁止させたのぢや、我輩が憲法取調の為め独逸《ドイツ》に居た頃、丁度ビスマルクが盛に社会党鎮圧を行《や》りおつた、然るに現時《いま》の内閣の者共が何も知らないから、少しも取締が届かない――可矣《よし》、山木、早速桂に申し付けよう」
「閣下、誠に有難う御座ります」と山木は足の爪先まで両手を下げつ、「イヤどうも、政府の大小、御世話なされまするので、御静養と申すこともお出来なされず、御推察致しまする」
「ウム、何かと云ふと、直ぐ元老が呼び出されるので、兎《と》てもかなはん――只だ美姫《びき》の幸《さいはひ》に我労を慰するに足るものありぢや、ハヽヽヽヽ、なア浜子」
 汽車は早くも大船《おほふな》に着けり、一海軍将校、鷹揚《おうやう》として一等室に乗り込みしが、忽《たちま》ち姿勢を正《ただし》うして「侯爵閣下」
 徐《おもむ》ろに顧みたる侯爵「ヤア、松島大佐か――何処《どこ》へ」
「横須賀からの」

     十六の三

「松島さん」と慇懃《いんぎん》に挨拶《あいさつ》する山木剛造を、大佐は軽く受け流しつ、伊藤侯爵と相対して腰打ち掛けぬ、
 夕陽《せきやう》は尚《な》ほ濃き影を遠き沖中《おきなか》の雲にとどめ、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−7
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