げいしや》だのツて御世話なすつて居らつしやるんですよ、ほんとに感心な方ですことネ――」
「其の芸妓《げいしや》のことで、老女《おば》さん、新聞などには大層、篠田さんの悪口が書いてあつたぢやありませんか」梅子の声は低く震へり、
「左様《さう》ですツてネ、貴嬢《あなた》、篠田さんが自分の妾になさるんだとか何とか書《かき》ましたつてネ、余《あ》まり馬鹿々々しいぢやありませんか、ナニ、皆《みん》な自分の心で他《ひと》を計るのですよ、クリスマスの翌日、彼《あ》の慈愛館へ伴《つ》れてお行《いで》になりましたがネ、――貴嬢、私の伜《せがれ》が生きてると丁度《ちやうど》篠田|様《さん》と同年のですよ、私、彼《あ》の方を見ると何時《いつ》でも涙が出ましてネ」
梅子はホツと面《かほ》赧《あか》らめつ「何と云ふ失礼な新聞でせうねエ」
此時、ベンチにはボツ/\人の顔見えぬ、長谷川牧師は扉を排して入り来れり、浅き微笑を頬辺《けふへん》に浮べて、
十六の一
午後五時三十分、東海道の上《の》ぼり※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《ぎしや》、正に大磯駅を発せんとする刹那《せつな》、プラットホームに俄《にはか》に足音|急《いそが》はしく、駅長自ら戦々兢々《せん/\きよう/\》として、一等室の扉を排《ひら》けば、厚き外套《ぐわいたう》に身を固めたる一個の老紳士、平たき面《おもて》に半白の疎髯《そぜん》ヒネリつゝ傲然《がうぜん》として乗り入る後《うし》ろより、未《ま》だ十七八の盛装せる島田髷《しまだまげ》の少女、肥満《ふとつちよう》なる体をゆすぶりつゝ笑《ゑみ》傾《かたむ》けて従へり、
発車の笛、寒き夕《ゆふべ》の潮風に響きて、汽車は「ガイ」と一と動《ゆ》りして進行を始めぬ、駅長は鞠躬如《きくきゆうぢよ》として窓外に平身低頭せり、去《さ》れど車中の客は元より一瞥《いちべつ》だも与へず、
未《ま》だ座には着くに至らざりし彼《か》の少女は、突如たる※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《きしや》の動揺に「オヽ、怖《こ》ワ」と言ひつゝ老紳士の膝《ひざ》に倒れぬ、
紳士は其儘《そのまゝ》かき抱《いだ》きて、其の白きもの施《ほど》こせる額を恍惚《うつとり》と眺《なが》めつ「どうぢや、浜子、嬉しいかナ」と言ふ顔、少女は媚《こび》を湛《たゝ》へし眸《め》に見上げつゝ「御前《ごぜん》、奥様に御睨《おにら》まれ申すのが怖《こは》くてなりませんの」
「ハヽヽヽヽ何に奥が怖いことあるものか、あれは梅干|婆《ばゝあ》と云ふのぢやから、最早《もう》嫉《や》くの何《ど》うのと云ふ年ぢや無いわい、安心しちよるが可《よ》い、――其れよりも世の中に野暮《やぼ》なは、其方《そち》の伯父ぢや、昔時《むかし》は壮士ぢやらうが、浪人ぢやらうが、今は兎《と》に角《かく》芸人の片端《かたはし》ぢや、此頃の乱暴は何《ど》うぢや、姪《めひ》を売つて権門に諂《へつら》ふと世間に言はれては、新俳優の名誉に関《かゝ》はるから、其方《そち》を取り戻すなどと、イヤ、飛んだ活劇をし居つたわイ、第一|其方《そち》の心中《こころ》を察しない不粋《ぶすゐ》な仕打ぢや、ナ、浜子」
「あの時は、御前、何《ど》うなることかと私《わたし》、ほんとに怖《こは》う御座いましたよ、けども御前、伯父も本心から彼様《あんな》こと致したのでは御座いませぬでせうと思ひますの、御前の御贔負《ごひいき》に甘えまして一寸《ちよつと》狂言を仕組んで見たので御座いますよ」
「ウム、其方《そち》の方が余程物が解わちよる、――アヽ、僅《わづ》かの間でも旅と思へば、浜子、誰|憚《はば》からず、気が晴々としをるわイハヽヽヽヽ」
「ほんたうに左様《さう》で御座いますのねエ、ホヽヽヽヽ」
人なき一室を我が世と楽《たのし》みて、又た他事もなき折こそあれ、「バタリ」響ける物音に、何事と彼方《かなた》を見れば、今しも便所の扉開きて現はれたる一客あり、陽春三月の花の天《そら》に遽然《きよぜん》電光|閃《きら》めけるかとばかり眉打ち顰《ひそ》めたる老紳士の面《かほ》を、見るより早く彼《か》の一客は、殆ど匍《は》はんばかりに腰打ち屈《かが》めつ、
「是れは/\伊藤侯爵閣下――」
伊藤と呼ばれし老紳士は、膝《ひざ》より浜子を下ろしつゝ「ウム、山木か――」
「閣下、久しく拝謁《はいえつ》を見ませんでしたが、相変らず御盛《ごさかん》なことで恐れ入りまする」
「山木、隠居役になると、貴公等には用が無くなるからナ」
と侯爵の冷《ひやゝ》かに笑ふを、山木剛造は額撫でつゝ「是《こ》れは閣下、決して左様な次第では御座りませぬが、――併し今日《こんにち》は誠に可《よ》い所で拝謁を得ました、実は是非共閣下の御権威《おちから》を拝借せねばならぬ義が御座
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