、秩父《ちゝぶ》暴動と云ふことは、明治の舞台を飾る小さき花輪になつて居るけれ共、其犠牲になつた無名氏の一人の遺児《かたみ》が、父母より譲受《ゆづりう》けた手と足とを力に、亜米利加《アメリカ》から欧羅巴《ヨウロツパ》まで、荒き浮世の波風を凌《しの》ぎ廻つて、今日コヽに同じ境遇の人達と隔《へだて》なく語り合つて居るのです、私の近き血縁を云へば只《たつ》た一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に孤独《ひとり》で居る、世の中は不人情なものだと断念して何《どう》しても出て来ない、――花さん、屈辱《はぢ》を言へば、貴女一人の生涯《しやうがい》ではない、只《た》だ屈辱の真味を知るものが、始めて他《ひと》を屈辱から救ふことが出来るのです」
一座しんみりと頭《かしら》を垂れぬ、
「御覧なさい、救世主として崇敬《うやま》はるゝ耶蘇《イエス》の御生涯を」と篠田は壁上の扁額《がく》を指しつ「馬槽《うまぶね》に始まつて、十字架に終り給うたではありませんか」
十五
多事多難なりける明治三十六年も今日に尽きて、今は其の夜にさへなりにけり、寺々には百八煩悩の鐘鳴り響き、各教会には除夜《ぢよや》の集会《あつまり》開かる、
永阪教会には、過般《くわはん》篠田長二除名の騒擾《さうぜう》ありし以来、信徒の心を離れ離れとなりて、日常《つね》の例会《あつまり》もはかばかしからず、信徒の希望《のぞみ》なる基督降誕祭《クリスマス》さへ極《きは》めて寂蓼《せきれう》なりし程なれば、除夜の集会《あつまり》に人足《ひとあし》稀《まれ》なるも道理《ことわり》なりけり、
時刻《とき》には尚《な》ほ間《ひま》あり、詣《まう》で来し人も多くは牧師館に赴きて、広き会堂電燈|徒《いたづ》らに寂しき光を放つのみなるに、不思議や妙《た》へなる洋琴《オルガン》の調《しらべ》、美しき讃歌の声、固く鎖《とざ》せる玻璃窓《はりまど》をかすかに洩《も》れて、暗夜の寒風に慄《ふる》へて急ぐ憂き世の人の足をさへ、暫《し》ばし停《とど》めしむ、
洋琴の前に座したるは山木梅子、傍《かたへ》に聴き惚《ほ》れたるは渡辺の老女、
「今度は老女《おば》さんのお好きな歌を弾きませう」と、梅子が譜本繰り返へすを、老女はジツと見やりて思はず酸鼻《はなすゝ》りぬ、
「何《ど》うかなさいまして、老女《おば》さん」
老女は袖口に窃《そ》と瞼《まぶた》拭《ぬぐ》ひつ「何ネ、――又た貴嬢《あなた》の亡母《おつか》さんのこと思ひ出したのですよ、――斯様《こんな》立派な貴嬢の御容子《ごようす》を一目|亡奥様《せんのおくさん》にお見せ申したい様な気がしましてネ、――」
答へんすべもなくて、只《た》だ鍵盤に俯《うつぶ》ける梅子の横顔を、老女は熟《つ》く熟《づ》くとながめ「何《どう》して、梅子さん、貴嬢《あなた》は斯《か》うまで奥様に似て居らつしやるでせう、さうして居らつしやる御容子ツたら、亡母《おつか》さん其儘《そのまゝ》で在《い》らつしやるんですもの――此の洋琴《オルガン》はゼームス様《さん》が亡母さんの為めに寄附なされたのですから、貴嬢が之をお弾きなされば、奥様《おくさん》の霊《みたま》が何程《どんな》に喜んで聴いてらつしやるかと思ひましてネ――オホヽ梅子さん、又た年老《としより》の愚痴話、御免遊ばせ――」
「アラ、老女《おば》さん、そんなこと――此の教会で亡母《はゝ》のこと知つてて下ださるのは、今は最早《もう》老女さん御一人でせう、家《うち》でもネ、乳母《ばあや》が亡母のこと言ひ出しては泣きます時にネ、きツと老女さんのこと申すのですよ、私《わたし》、老女さんに抱いて戴いて、亡母《はゝ》と永訣《おしまひ》の挨拶《あいさつ》をしたのですとネ、――私、老女さん、此の洋琴に向ひますとネ、何《ど》うやら亡母が背後《うしろ》から手を取つて、弾いてでも呉れる様な気が致しましてネ、不図《ふと》、振り向いて見たりなどすることがあるんですよ、――私ネ、老女さん、此の教会を棄てることの出来ないのは、こればかりなんです――」
「まア、貴嬢《あなた》、飛んでも無いこと仰《おつ》しやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会は全《まる》で闇《やみ》ですよ、篠田さんの御退会で――」
思はず言ひ掛けて、老女は俄《にはか》に口に手を当てぬ、「ほんとに老女《おば》さん、篠田さんのことでは私、皆様にお顔向けがならないのです、――老女さん、近く篠田さんに御面会《おあひ》なさいまして――」
「ついネ、此の廿五日にも参上《あが》つたのですよ、御近所の貧乏人の子女《こども》を御招《および》なすつて、クリスマスの御祝をなさいましてネ、――其れに余りお広くもない御家《おうち》に築地の女殺で八釜《やかまし》かつた男の母《おや》だの、自由廃業した芸妓《
前へ
次へ
全74ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング