貧乏や着物の汚穢のを気にしてはなりませんよ、汚穢《きたない》心を持つて、奇麗な衣服《きもの》を着て居る人があるなら、其人こそ真正《ほんたう》に耻づかしい人です」
 お花は孰《いづ》れも木綿の揃《そろひ》の中に、己《おの》れ独《ひと》り忌《いま》はしき紀念《かたみ》の絹物|纏《まと》ふを省みて、身を縮めて俯《うつむ》けり、
 篠田は語り継《つづ》く「人間の尤《もつと》も耻づかしいのは、虚言《うそ》を吐くことです、喧嘩《けんくわ》することです、懶《な》まけることです」
 忽《たちま》ち座敷の一隅に声あり「お虎さんは、今日俺に鉛筆呉れるなんて虚言《うそ》を言つたぜ」
「ウソ、熊吉さんが私《わたし》に石を打《ぶ》つつけたもの」とて早くもメソ/\と泣く、
 彼方《あなた》の一隅には「松公ン所《とこ》の父《ちやん》は朝から酒飲んでブウ/\ばかり、育つてるぢやねエか」
「何だ手前《てめえ》の母《おつかあ》は毎晩四の橋へ密売《ひつぱり》に出るくせしやがつて……」
 お花の目には涙ありき、

     十四の二

 少年少女は何《いづ》れも基督降誕祭《クリスマス》の贈物貰ひたれば、歓喜の声振り立てて帰り行けり、
「アヽ、実に今年は愉快なクリスマスを致しました」と篠田は喜色、面《おもて》に溢《あふ》る、
「それに先生、お花さんとやらに、老女《おばあ》さんに、お二人まで在《い》らつしやるので、何程《どんなに》お賑《にぎや》かとも知れませんよ、殿方ばかりのお家《うち》は、何処《どこ》となくお寂《さび》しくて、お気の毒で御座いましてネ」渡辺の老女はホヽ笑みつゝ「大和さん、貴郎《あなた》もマア、お勝手の方を御役御免におなりなさいましたのねエ」
「なあに、老女《おば》さん、花さんは夜が明けると大久保の慈愛館へお行でになるんだから、明日から、僕が又《ま》た復職するんです」と大和は笑ふ、
 お花は俯《うつむ》きて何やら気の進まぬ体《てい》、
「何だか私《わたし》も花ちやんにお別れするが厭《いや》でなりませんの」とい兼吉の老母もつぶやく、
「老女《おば》さん」と篠田は渡辺の老女を顧みつ「花さんは大切《だいじ》な体です、将来《こののち》に大きな事業《しごと》をなさらねばならぬ役目を負《お》んで居られますので、又た花さんの性質に極《ご》く適当した役目であると思ひますので、矢島の老女史《らうせんせい》や、島田の奥様《おくさん》に能《よ》くお話して御依頼しましたが、何《いづ》れも快く引き受けて下ださいましたから、当分慈愛館で修業なさるのです」
「ですけども先生」とお花は顔|僅《わづか》に擡《もた》げつ、「私の様なものは兎《と》ても世間へ面出《かほだ》しが出来なからうと思ひましてネ、寧《いつ》そ御迷惑さまでも、お家《うち》で使つて戴いて、大和さんや、老母《おば》さんに何か教へて戴きたいと考へますの――」
「花さん、何時の間に貴女《あなた》は其様《そん》な弱き心にお化《な》りでした、――先夜始めて新聞社の二階で御面会致した時、貴女と同じ不幸に陥《おちい》つてる女《ひと》、又陥りかけてる女が何千何万とも限《かぎり》ないのであるから、其を救ふ為めの一個《ひとり》の証人《あかしびと》にならねばならぬと申したれば、貴女は身を粉《こ》に砕いても致しますと固く約束なされたでせう」
 と篠田はお花を奨《はげ》ましつ「誠《まこと》に世の中は不幸なる人の集合《あつまり》と云うても差支《さしつかへ》ない程です、現に今ま爰《こゝ》へ団欒《よつ》てる五人を御覧なさい、皆な社会《よのなか》の不具者《かたは》です、渡辺の老女さんは、旦那様《だんなさま》が鹿児島の戦争で討死《うちじに》をなされた後は、賃機《ちんはた》織つて一人の御子息を教育なされたのが、愈々《いよ/\》学校卒業と云ふ時に肺結核で御亡《おなく》なり、――大和君の家《いへ》は元《も》と越後の豪農です、阿父《おとつ》さんが国会開設の運動に、地所も家も打ち込んで仕舞ひなすつたので、今の議員などの中には、大和君の家《うち》の厄介になつた人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺児を顧るものは無い、然《し》かし大和君は我も殆《ほとん》ど乞食同様の貧しき苦痛を嘗《な》めたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏人の子女《こども》の為め今度学校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の開校式を挙げた積りのです、――兼吉君のことは花さん、既に御聞になつたでせう、兼吉君の阿父《おとつ》さんが、自分の財産《しんだい》を挙《あ》げて保証《うけにん》の義務を果たすと云ふ律義な人で無《なか》つたならば、老婆《おばあ》さんも今頃は塩問屋の後室《おふくろさま》で、兼吉君は立派に米さんと云ふ方の良人《をつと》として居られるのでせう、――私自身を言うて見ても
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