わねエ――阿母さん、――」

      *     *     *

 障子《しやうじ》一重《ひとへ》の次の室《ま》に、英文典を復習し居たる書生の大和、両手に頭抱へつゝ、涙の霰《あられ》ポロリ/\、

     十四の一

 十二月廿五日の夕《ゆふべ》は来りぬ、寒風枯草を吹きて、暗き空に星光る様、そぞろに二千年前の猶大《ユダヤ》の野辺《のべ》を偲《しの》ばしむ、
 篠田長二の本村の家には戸障子明け放ちて正面の壁には耶蘇《ヤソ》馬槽《うまぶね》に臥するの大画を青葉に飾り、洋燈《ランプ》カン/\と輝く下《もと》には、八九歳より十二三歳に至る少年少女二十余名打ち集《つど》ひて喧々囂々《けん/\がう/\》、兼吉の老母、お花、書生の大和など切《しき》りと其間を周旋《しうせん》しつゝあり、小急ぎに訪《おとな》ひ来れるは渡辺の老女なり、
 篠田は自ら出で迎へつ「オヽ、老女《おば》さん、能《よ》う来て下さいました、今夜は近所の小児等《こどもら》を招きまして、基督降誕祭《クリスマス》を営むことに致しまして、――其上、十二月廿五日と云ふ日に特別の関係ある婦人の新客がありますので、旁々《かたがた》御光来《おいで》を願ひました」
「何の、先生、昨夜《ゆうべ》はネ、教会の降誕祭《クリスマス》で御座いましたが、今年は先生の御顔が見えず、面白い御話を御聞きすることが出来ないツてネ、去年の時のことばかり言ひ出して、皆様|寂《さび》しい思をしたので御座いますよ、今晩は先生の御宅《おうち》の御祝に御招《おまねき》を受けましたので斯様《こんな》嬉しいことは、御座いません」
 今や式は始まりぬ、少年少女|何《いづ》れも呼吸《いき》を殺ろし眼を円くして、訝《いぶか》しげに見遣る、
 大和一郎が得意の美音を振り立てて讃美歌の独吟あり、
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「ひとにはみめぐみ  地にはやすき
かみにはみさかえ   あれとうたふ
あまつつかひらの   きよき声は
しづかにふけゆく   夜にひびけり」
「いまなほみつかひ  つばさをのべ
つかれしこの世を   おほひまもり
かなしむみやこに   なやむ鄙《ひな》に
なぐさめあたふる   うたをうたふ」
「おもにをおひつゝ  世のたびぢを
ゆきなやむ人よ    かしらをあげ
よろこばしき日を   うたふうたの
いとたのしきこゑ   きゝていこへ」
「みつかひのうたふ  平安《やすき》きたり
よゝのひじりらの   まちし国に
エスを大君と     たゝへあがめ
あまねく世のたみ   たかくうたはん」
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 篠田は起《た》つて聖書を読み、祈祷《きたう》を捧げ、扨《さ》て今宵《こよひ》の珍客なる少年少女に向《むかつ》て勧話の口を開けり、
「貴所等《あなたがた》と私《わたし》とは長く御近所に住つて居りますが、今まで仲よく一所に遊ぶ様な機会《をり》がありませんでした、今晩は能《よ》くこそ来て下さいました、――今晩|貴所方《あなたがた》をお招《よび》申したのは、耶蘇基督《イエスクリスト》と云ふお方の御誕生日を、御一所にお祝ひ致《い》たさうと思つたからです、貴所方《あなたがた》も皆《みん》な生れなすつた日がある、其日になると、阿父《おとつ》さんや、阿母《おつか》さんが、今日は誰の誕生日だからと、何かお祝をして下ださるでせう」
「アイ、二十日《はつか》が俺の誕生日だツて、阿母《おつかあ》が今川焼三銭買つて、父《ちやん》の仏様へ上げて、あとは俺が皆な食べたよ」と、突如《だしぬけ》に返事したるは、覚束《おぼつか》なき賃仕事に細き烟《けむり》立て兼ぬる新後家《しんごけ》の伜《せがれ》なり、
 クス/\笑ふものある中に篠田は首肯《うなづき》つ「丁度《ちやうど》其れと同じく、基督《キリスト》の御誕生日には私共《わたしども》一同、日本人ばかりでは無い、世界中の人が神様へ御礼を申し上げるのです、基督のことは今ま歌を歌ひなされた、大和先生から段々御聞きなさい、私《わたし》が差当り一つ御話して置くのは、――貴所方《あなたがた》が忘れない様に聞いて置《おい》て頂きたいのは、――二千年|昔時《むかし》にお生れになつた外国人の基督が、何時までも/\世界中の人に、誕生日を祝つて貰ふと云ふ不思議な理由《わけ》です、基督と云ふお方は極々《ごく/\》貧乏な家《うち》へお生れになつたのです、此の壁に懸《か》けてある画にある様に、旅の宿屋の馬小屋で馬の秣桶《かひばをけ》を、臥床《ねどこ》になされたのです、阿父《おとうさん》は貧しき大工で、基督も矢張り大工をなされたのです――能《よ》く御聴きなさい、貧乏と云ふことは左《さ》まで耻かしいことではありません、私も貴所方《あなたがた》も皆《みん》な汚穢《きたない》着物でせう、私も貴所方も皆な貧乏人です、けれど、
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