目の夕方、ブラリと出て新聞社へ参つたのですヨ、――先生様が、凝《じつ》と私の顔を見つめなすつて、『貴女《あなた》の御一身は私《わたくし》が御引き受け致しました、御安心なさい』と仰しやつた御一言が、森《しん》と骨にまで浸《し》み徹《とほ》りましてネ、有り難いのやら、嬉しいのやら、訳なしに涙が湧《わ》き出るぢやありませんか」
言ひつゝ彼女《かれ》は襦袢《じゆばん》の袖もて窃《そ》と眼を拭《ぬぐ》ひつ「それから老女《おば》さん、燈《ひ》が点《つ》いて後、此家《こちら》へ連れて来て戴いたのですがネ、あの土橋を渡つて烏森の方を振り返つて見た時には、コヽに廿一年暮らしたのかと思ふと、怨《うら》めしい様な、懐《なつか》しい様な、何とも言へない気がして胸が張り割《さ》ける様でしたの、アヽ此処《こゝ》の為めに生れも付かぬ賤《いや》しい体になつたのだと思ひついて、そして先生様の後姿をお見上げ申すとネ、精神《こゝろ》が鞏固《しつかり》して、籠《かご》を出た鳥とは、此のことであらうと飛び立つ様に思ひましたよ――」
「ほんとにねエ」と兼吉の老母《ばゝ》も煙に咽《むせ》びつ、
十三の二
「それからネ、老女《おば》さん」と、お花は明朝《あす》の米かしぐ手を暫《し》ばし休めつ「歩きながらのお話に、此頃湖月で話した兼吉の老母《はゝ》が家《うち》へ来て居ると先生様が仰《お》つしやるぢやありませんか、老母《おば》さん、私《わたし》どんなに嬉しかつたか知れませんよ、お目に懸つた方でも何でも無いんでせう、けども米《よね》ちやんのお姑《しうと》さんだと思ひますとネ、何《ど》うやら米ちやんにでも逢ふやうな気がするんですもの、――私は斯《か》う云ふお転婆、米ちやんは彼《あ》の通りの温柔《おとなし》やでせう、ですけども、何《ど》うしたわけか能《よ》く気が合ひましてネ、始終《しじゆう》往来《ゆきき》して姉妹《きやうだい》の様にして居たんですよ、あゝ云ふことになる晩まで、一つお座敷で色々語り合つた程ですもの――其の縁に繋《つな》がる老母さんに図《はか》らぬお世話様になると云ふのも、ほんとに米ちやんの引き合はせぢや無いかと思はれましてネ」
小米と聞けば直ちに一粒種の我子のこと思ひ出づる老婆は、セキ上ぐる涙を狭き袖に抑《おさ》へつ「あゝ云ふことになると云ふも、皆な前世からの約束事と諦《あきら》めてネ――それに斯《か》うやつて此方《こちら》の先生様が御親切にして下ださるもんですから、せめては兼吉が生《うみ》の父にも増して頼《たより》にして居た先生様の、御身のまはりなりと御世話致したら、牢屋に居る伜《せがれ》も定めて喜ぶことと思ひましてネ――」
「ほんとに老女《おば》さん、何《どう》したら篠田様のやうな御親切な御心が持《もて》ませうかネ――私《わたし》ネ老女さん、男なんてものは、皆《みん》な我儘《わがまゝ》で、道楽で、虚《うそ》つきで、意気地《いくぢ》なしのものと思つてたんですよ、――先生様《しのださま》で私、驚きましたの、一寸お見受け申すと、何だか大変に怖《こは》さうで、不愛想の様で居らつしやいますが、心底に温柔《やさし》い可愛らしい所がおありなすつて、彼《あ》れが威あつて猛《たけ》からずとでも云ふんでせうかねエ――籍の方の詰も落着したから、明日の何とか、さウ/\、クリスマスとか云ふのが済んだなら、大久保の慈愛館とやらへ行くやうにと、今朝もお話下ださいましたけれどもネ、老女さん、私、何《ど》うやら此家《こちら》が自分の生まれた所の様に思はれて、何時までも老女さんと一所に居たい様な気がして、堪《た》まりませんの」
「花ちやん、其様《そんな》に柔《やさ》しく言うてお呉れだと、何だかお前さんが米ちやんの様に思はれてネ」
「老女《おば》さん、私《わたし》も左様《さう》ですよ、始めて此方《こちら》へ上つて――疲れたらうから早くお寝《やすみ》ツて仰《おつしや》つて下だすツて、老女さんの傍へ寝せて戴いた時――私、ほんとに母の懐へ抱かれでもした様な気がしましてネ、五体《からだ》が延《のん》びりして、始めてアヽ世界は広いものだと、心の底から思ひましたの、――私、老女さん、二十年前に別れた母が未だ存《ながら》へて居て、丁度《ちやうど》廻り合つたのだと思つて孝行しますから――私の様なアバずれ者でも何卒《どうぞ》、老女さん、行衛《ゆくゑ》知れずの娘が帰つて来たと思つて下ださいナ」
老婆は涙にムセびつゝ、首肯《うなづ》くのみ、
「オヽ、嬉しい」と、お花は涙一杯の美しき眼に老婆を仰ぎつ「ぢや、今から阿母《おつか》さんと言つても可《よ》う御座んすか――何だか全《まる》で夢の様ですのねネ――昨日までの邪慳《じやけん》な心が、何処へか去《い》つて仕舞つたの――私《わたし》ヤ、すつかり生れ変はりました
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