》に何某殿《なにがしどの》と不景気知らずの冬籠《ふゆごも》り、嫉《ねた》ましの御全盛やと思ひの外、実《げ》に驚かるゝものは人心、気の知れぬと古人も言ひける麻布《あざぶ》は本村《ほんむら》の草深き篠田長二のむさくろしき屋台に大丸髷《おほまるまげ》の新女房……義理もヘチマも借金も踏み倒ふしの社会主義自由廃業の一手専売、耶蘇《ヤソ》を棄てて妻を得たとの大涎《おほよだれ》、筒ツぽ袖には拭き尽せまじ……彼が積年の偽善の仮面《めん》をば深くな咎《とが》めそ、長二君とて木から生まれた男ではごんせぬ、
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梅子は胸を押へて復《ま》た目を塞《ふさ》ぎぬ「――本当だらうか――」
十三の一
麻布本村の阪を上がり行く牛乳屋の小僧と八百屋の小僧、
「其処《そこ》の篠田さんナ、彼様《あんな》不用心な家見たことが無《ね》いぜ、暗いうちに牛乳《ちゝ》を配るにナ、表の戸を開けて裡《なか》へ置くのだ、あれで能《よ》く泥棒が這入《はひ》らねエものだ」
「ナニ、年中泥棒に遭《あ》つてるださうナ、これから広尾へ掛けて貧乏人の巣だから、堪《た》まつたもんぢやねエやナ、所がお前《めえ》言ひ分が面白いや、書生の大和ツて男《ひと》が言ふにやネ、誰も好んで泥棒などするのでは無いだから、余つてるものが在《あ》るなら、無いものに融通するのは人間の義務で、他人が困つてるのに自分ばかり栄耀《ええう》してるのが、ほんたうの泥棒だとよ」
「ふウム、一理あるナ、――所で近来|素敵《すてき》な別嬪《べつぴん》が居るぢやねエか、老母《おふくろ》付きか何かで」
「母子《おやこ》ぢや無《ね》いよ、老婆《ばゝあ》の方は月の初めから居るが、別嬪の方はツイ此頃だ、何でも新橋あたりの芸妓《げいしや》あがりだツてことだ」
「へい、筒袖《つゝツぽ》先生、マンざら袖無《そでね》エばかりでも無《ね》いと見えるナ」
「所が言葉の使ひツ披《ぷり》から察しると、其様《さう》らしくも無い、馬鹿丁寧なこと言ひ合つてるだ」
「どうも此の界隈《かいわい》にや、渡辺国武だの、津田仙《つだせん》だの、矢野二郎だの、安藤太郎だのツて一《ひ》と風《ふう》変《かは》つた連中のお揃ひだナ」「何《いづ》れ麻布七不思議ツてなことになるのだろ、ハヽヽヽヽ」
* * *
小僧等の目をさへ驚かしたる篠田方の二個《ふたり》の女性《をんな》、老いたるは芸妓殺《げいしやころし》を以て満都の口の端《は》に懸《かゝ》りたる石川島造船会社の職工兼吉の母にて、若きは近き頃迄|烏森《からすもり》に左褄《ひだりづま》取りたる花吉の変形なり、
夕日|斜《なゝめ》に差し入る狭き厨房《くりや》、今正に晩餐《ばんさん》の準備最中なるらん、冶郎蕩児《やらうたうじ》の魂魄《たましひ》をさへ繋《つな》ぎ留めたる緑《みどり》滴《したゝ》らんばかりなる丈《たけ》なす黒髪、グル/\と引ツつめたる無雑作《むざふさ》の櫛巻《くしまき》、紅絹裏《もみうら》の長き袂、しごきの縮緬《ちりめん》裂いて襷《たすき》凛々敷《りゝしく》あやどり、ぞろりとしたる裳《もすそ》面倒と、クルリ端折《はしを》つてお花の水仕事、兼吉の母は彼方《あちら》向いて竈《へつつひ》の下せゝりつゝあり、
「考へて見ると老女《おば》さん、ほんとに世の中は面白いものねエ、かうした処でお目に懸《かゝ》つて、此様《こん》なお世話さまにならうなどとは、夢にも思やしないんですもの、此頃中の私《わたし》の心と云ふものは、老女さん、昨夜《ゆうべ》もお話した様なわけでネ、自分ながら思案に暮れましたの、どうせ泥水商売してるからにや、普通《なみ》の女《ひと》の様なこと思つたからとて、詮《せん》ないことなんだから、寧《いつ》そ松島と云ふ男《ひと》の所へ行つて、思ふ存分|我儘《わがまま》を働いて遣《や》らうかなどとも迷つたりネ、自暴《やけ》になつて腹ばかり立つて、仕様《しやう》も模様も無かつたのですよ、スルと湖月の御座敷で始めて此家《こちら》の先生様にお目に掛りましてネ、兼吉さんと米ちやんとのお話を承はつてる中に、私の心が妙な風に成つて来ましてネ、仮令《たとひ》女性《をんな》の節操《みさを》を涜《けが》したものでも、其が自分の心から出たのでないならば、咎《とが》めるに及ばぬと仰《おつ》しやつたお言葉が、ヒシと私の胸を刺《さし》ましたの、して見ると私などでも余り世間を怨んで、ヒガミ根性《こんじやう》ばかり起さんでも、是れからの心の持ち様一つでは、人様の前へ顔出しが出来るやうになれるかと不図《ふと》思ひ浮かびましてネ、其れから二日二晩と云ふもの考へ通しましたけれど、如何《どう》したら可《い》いのか少しも方角が付かぬぢやありませんか、一つ篠田様にお願申して見る外無いと思ひましてネ、二日
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