てはなりません、貴郎《あなた》は篠田さんを誤解して居なさるから――」
「誤解? 誤解とは何です」
「いエ、慥《たしか》に貴郎《あなた》は誤解して居なさいます、剛さん、貴郎は篠田さんが常に洗礼のヨハネをお説きになつたことを御聴きでせう、又た実に殆どヨハネの如く生活して居なさることも御覧でせう、家庭の歓楽と云ふ如き問題は、最早《もは》や篠田さんのお心には無いのです、勿論《もちろん》彼《あ》の様なる荘厳の御精神に感動せざる女性《をんな》の心が、何処《どこ》にありませう、けれど剛さん、若し自分一人して其の愛情を獲《え》たいと思ふ女《ひと》があるならば、其れは丁度《ちやうど》申しては、失礼ですが、私共《わたしども》の父上や、貴郎の伯父上が、自分の手一つに社会の富を占領したいと思召《おぼしめ》すのと、同じ罪悪です」
夕ばえの富士の雪とも見るべき神々しき姉の面《おもて》を仰ぎて、剛一は、腕《うで》拱《こまぬ》きぬ、
鳥の群、空高く歌うて過ぐ、
十二
日露両国の間、風雲|転《うた》た急を告ぐるに連れて、梅子の頭上には結婚の回答を促《うな》がすの声、愈々《いよ/\》切迫し来れり、
継母の権威さへ遂《つひ》に梅子の前に其光を失ふに及びて、今は父剛造自ら頭《かしら》を垂れて哀願せざるべからずなりぬ、
此夜彼が「梅子、相変らずの勉強か」と、いとも柔《やは》らかに我女《わがこ》の書斎を訪《おとづ》れしも是《こ》れが為めなり、
あらゆる威嚇《いかく》、甘言、情実、誘惑に対する彼女の防禦《ばうぎよ》方法は、只だ沈黙と独身主義とのみ、流石《さすが》の剛造も今は殆《ほとん》ど攻めあぐみぬ、
「デ、梅子、私《わし》は決してお前が篠田などと関係があるの何のと思《お》もやせぬ、私はお前が其様《そんな》馬鹿と思もやせぬから少しも気には留めぬが、大洞《おほほら》が切《しき》りに其事を言ふので、誰が言うたか松島大佐も其れが為めに甚《ひど》く感色を悪るくして居たと云ふのだから、――篠田も最早《もはや》教会を除名した上は、風評《うはさ》も自然立ち消えになるであらうが、兎角《とかく》世間は五月蝿《うるさい》ものだから、一層気を付けて――ナ其れに其の新聞にもある通り」と剛造ほ梅子の机上にヒロげられたる赤新聞を一瞥《いちべつ》しつ「篠田の奴、実に怪《け》しからん放蕩漢《はうたうもの》だ、芸妓《げいしや》を誘拐《かどわか》して妾にする如き乱暴漢《ならずもの》が、耶蘇《ヤソ》信者などと澄まして居たのだから驚くぢやないか」
剛造は低頭《うつむ》ける我女《わがこ》の美くしき横顔チラと見やりて、片膝|起《た》てつ「ぢや、梅子、私《わし》は明朝一番※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《ぎしや》で九州まで行つて来るから――是れも皆《みん》な篠田の仕業《しわざ》だ、坑夫共を煽動《せんどう》して、賃銭値上の同盟などさせをるのだ、愈々日露開戦になれば石炭が上ると云ふ所を見込んでの悪策《いたづら》だ、――歳暮ではあり、東京《こつち》の用事も手を抜く訳にならぬけれど、今日も長文の電報で、直ぐ来て呉れねば何《どん》なことになるも知れぬと云ふのだから拠《よんどころ》ない――実に梅、悪い奴共の寄合《よりあひ》だ、警視庁へ掛合つて社会党の奴等《やつら》片端から牢へでもブチ込まんぢや安心がならない、――其れで一週間程で帰る積《つもり》だから、其間に松島との縁談、能《よ》く考へて置いて呉れ、私《わし》は決してお前の利益《ため》にならぬ様なこと勧めるのぢやない、――兼てお前は別家させる横《つもり》で、小石川の地所も公債の二万円と云ふものも、既にお前の名義に書き換へて置いたのだが、嫁に行くも婿《むこ》を取るも同じことだ、――今こそ未《ま》だ大佐だが、薩州出身で未来の海軍大臣とまで望《のぞみ》を属《しよく》されて居る松島だから、梅子別段不足もあるまいぢや無いか――モー九時過ぎた、是りや梅子飛んだ勉強の邪魔した」
剛造はノサ/\と出で行けり、
* * *
徐《おもむ》ろに眼を開きたる梅子の視線は、いつしか机上に開展されたる赤紙の第三面に落ちて、父が墨もて円く標《しるし》せる雑報の上をたどるめり、
[#ここから1字下げ]
※[#丸中黒、1−3−26]社会党の艶福、花吉の行衛《ゆくゑ》
婀娜《あだ》たる容姿は陽春三月の桜花をして艶を失はしめ、腕の凄《すご》さは厳冬半夜のお月様をして面《おもて》を掩《おほ》はしめたり、新橋両畔の美形雲の如き間に立ちて、独り嬌名《けうめい》を専《もつぱ》らにせる新春野屋の花吉が、此の頃|俄《にはか》に其の影を見せぬは、必定|函根《はこね》の湯気|蒸《む》す所か、大磯《おほいそ》の濤音《なみおと》冴《さ》ゆる辺《あたり
前へ
次へ
全74ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング