て下ださい、――一体僕の家は何で食つて居るんです、何で此様《こんな》贅沢《ぜいたく》が出来るんです、地代と利子と、賭博《ばくち》と泥棒とぢやありませんか――否《い》や、姉さん、少しも酷《ひど》い言ひ分ぢやありません、正直《ほんたう》のことです、――実直に働いてるものは家もなく食物もなく、監獄へ往つたり、餓死したり、鉄道往生したりして、利己主義の悪人が其の血を吸《すつ》て、栄耀栄華《ええうえいぐわ》をするとは何事です――父さんは九州炭山の大株主で重役だと云ふので、威張《ゐばつ》て居なさる、僕等は其の利益で斯《か》く安泰に生活して居るけれど、僕等を斯く安泰ならしめてる彼《か》の炭山坑夫の状態は何《ど》うです、――現に父さんでさへ、彼等を熊の如き有様だと言うて居なさるぢやありませんか、然《し》かし彼等は熊ぢやありません、人間です、同胞兄弟です、僕は彼《あ》の暖炉《ストーブ》に燃え盛る火焔《くわえん》を見て、無告の坑夫等の愁訴する、怨恨《ゑんこん》の舌では無いかと幾度《いくたび》も驚ろくのです、僕は今朝『同胞新聞』を見て実に胸を打たれたです――父さんは同胞新開を家《うち》へ入れることを禁じなさるけれど、僕は毎朝買つて見て居るんです――九州炭山の坑夫間に愈々《いよ/\》同盟が出来上がらんとして、会社の方で鎮圧策に狼狽《らうばい》してると云ふ通信が載《の》つてたのです、――僕は端《はし》なくも篠田さんが曾《かつ》て『労働者中|尤《もつと》も早く自覚するものは、尤《もつと》も世人に軽蔑《けいべつ》されて、尤も生活の悲惨を尽くしてる坑夫であらう』と予言された演説の一節を、思ひ浮べました、姉さん、篠田さんは曾《かつ》て此事を予言なされたのです」
 剛一は「篠田」の一語に力を籠《こ》めて姉の面《おもて》を見たり、
 ベンチに腰打ち掛けたるまゝ梅子は無言なり、
 剛一は少しく声をひそめつ「僕は姉さんが松島の野郎の縁談を断然拒絶なされたと聞いて、実に愉快で堪まらんのです、彼奴《きやつ》の家を御覧なさい、彼《あ》の放蕩《はうたう》を御覧なさい、軍艦のコムミッションと、御用商人の賄賂《わいろ》ぢやありませんか、――貴嬢《あなた》を妻に欲しいと云ふのも、決して貴嬢の学識や品性を重んじて言ふのぢや無い、只《た》だ貴嬢の特別財産を見込むのだ、実に失敬ナ――けれど姉さん僕は貴嬢に一つの疑問があるのです」
「疑問て、剛さん」
「姉さん、貴嬢がほんたうに僕を愛し、僕を信じて下ださるなら、何卒《どうぞ》僕に打ち明けて安心させて下ださいませんか、僕は姉さんの独身主義と云ふのが解《わ》からないのです、其れは主義から出た結論でなく、境遇から来た迫害だと僕は思ふのです、――其れは貴嬢の持論に似合はぬ甚だ卑怯《ひけふ》なことだと思ふのです」
「卑怯つて何です」
「其れは、少しく言葉が過ぎたかも知れませんが、然《し》かし姉さん、旧思想の黒雲を誰か先づ踏み破る人が出なければ、世に改革の曙光《しよくわう》を見ることが出来ないと云ふのが、姉さんの主張ではありませんか、――今ま貴嬢《あなた》は啻《ただ》に旧思想のみならず、現時の不正なる勢力の裡《うち》に取り囲まれて居なさるのです、何故《なぜ》、姉さん、貴姉《あなた》は之を打ち破つて、幾百万の婦女子を奴隷《どれい》の境遇から救ふべき先導をなさいませんか、神聖なる愛情を殺して、独身主義などと云ふ遁辞《とんじ》を作りなさるのは、僕は実に大不平です」
「剛さん」
「いや、姉さん、僕は貴嬢《あなた》の理想の丈夫《ひと》を知つて居ます、貴嬢の理想の丈夫は即《すなは》ち僕の崇拝して居る所の丈夫《ひと》です、僕は実に嬉しくて堪《た》まらんのです、――僕が此の父の罪悪の家に在りながら、常に心に光明を持つことの出来るのは、姉さん、貴嬢の純潔なる愛の為めです、――此上に貴嬢の理想の丈夫の口から『我が弟よ』と呼んで貰ふことが出来るならば、僕は世界に於《おい》て外に求むる所はありません」
 剛一はムンズとばかりに梅子の手を握りつ「姉さん、僕は常に篠田さんの写真に向《むかつ》て『兄さん』と小声で呼んで見るんですよ」
 梅子の手は震《ふる》ひぬ、
「姉さん、僕は今でも絶えず篠田さんの教《をしへ》を受けて居るんです、篠田さんに教会放逐と云ふ侮辱を与へたものは僕の父です、父の利己心です、無論其等の事を意に介する様な篠田さんぢやない、――井上でも大橋でも脱会の決心を飜《ひるが》へしたのは、篠田さんに懇々《こん/\》説諭されたからでもありますが、姉さん、篠田さんの居ない教会に、寂しく残つて居なさる貴嬢を見棄《みす》てるに忍びないと云ふのが、尤《もつと》も著しき彼等の動機なんでしたよ」
 良久《しばらく》ありて、梅子は目をしばたゝきつ、「剛さん、軽卒《めつた》なことを仰しやつ
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