に左様《さう》だわねエ」
「ヘエ、そして芳《よつ》ちやん、既《も》う牢屋へ行らしつたのですか」
「否《いゝ》え、明日ですつて、」
「左様《さう》ですか――」
 梅子は強《しひ》て平然と装へり、去《さ》れど制すべからざるは其顔なり、看《み》よ、其の凄《すさまじ》き蒼白《さうはく》を、芳子は稍々《やゝ》予算狂へるが如く、訝《いぶ》かしげに姉の面《かほ》見つめて、居たりしが、芳子々々と、ケタヽましく呼ぶ母の声に、飛ぶが如くに黙つて走せ行けり、
 梅子は声を呑《の》んで瞠《だう》と伏せり、

     二十九の一

 宵の雨も何時《いつ》しか雪と降り替はれり、
 麻布本村町の篠田が玄関には、深《ふ》け行く寒き夜を、大和《おほわ》一郎の尚《な》ほ兀々《こつ/\》と勉学に余念なし、雪バラ/\と窓を打ちて、吹き入る風に身を慄《ふる》はしつ「オヽ、寒い、最早《もう》何時かナ、未だ十二時にはなるまい――」
 顧《かへりみ》る台所の方《かた》には、兼吉の老母が転輾《てん/\》反側《はんそく》の気はひ聞ゆ、彼女《かれ》も此の雪の夜の物思ひに、既に枕に就《つ》きたるも、容易《たやす》くは夢の得も結ばれぬなるべし、
 篠田が書斎の奥よりは、洋紙《かみ》を走《は》しるペンの音、深夜の寂寞《せきばく》を破りて漏《も》れ来ぬ、
 大和は襟《えり》掻き合はしつ「アヽ、先生は未《ま》だお寝《やす》みにならんのか、何か書いて居らつしやる様だ、――明日の社説かナ、否《い》や、日常《いつも》お寝《やすみ》の時間に仕事なさるのだから、他《ほか》に何か急用の書き物がおありなさるのであらう、手紙かナ、平民週報の寄書かナ、ア、左様《さう》だ、露西亜《ロシヤ》の社会民主党へ贈りなさる文章に相違無い――両国の侵略主義者が嫉妬《しつと》猜忌《さいき》して兵火に訴へようとする場合に、我々同意者は相応じて世界進歩の為めに、平和の福音《ふくいん》を鼓吹《こすゐ》せねばならぬと言うて居られたから――が、先生も実にお気の毒で堪らぬ――」
 大和は瞑目《めいもく》して大息《たいそく》せり、
「――教会を除名されなすつたなどは、別段先生の損失でもなく、寧《むし》ろ教会の愚劣と偽善を表白したに過ぎないのだが、驚いたのは鍛工《かぢこう》組合の挙動だ――先生が梅子さんと結婚なさる為めに、主義を抛棄《はうき》なさるとは、何と云ふ破廉耻《はれん
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