後に室《しつ》を出《いで》て行けり、

     三の一

「先生、在《い》らつしやいますか」と大きなる風呂敷包《ふろしきづつみ》を抱へて篠田長二の台所に訪れたるは、五十の阪を越したりとは見ゆれど、ドコやら若々とせる一寸《ちよいと》品の良き老女なり、男世帯なる篠田家に在りての玄関番たり、大宰相たり、大膳太夫《だいぜんのたいふ》たる書生の大和《おほわ》一郎が、白の前垂を胸高《むなだか》に結びて、今しも朝餐《あさげ》の後始末なるに、「おヤ、まア大和さん、御苦労様ですこと――先生は在《い》らつしやいますか」
 松が枝の如きたくましき腕を伸《の》べて茶碗洗ひつゝありし大和は、五分刈の頭、徐《おもむ》ろに擡《もた》げて鉄縁の近眼鏡《めがね》越《ごし》に打ちながめつ「あア、老女《おば》さんですか、大層早いですなア――先生は後圃《うら》で御運動でせウ、何か御用ですか」
「なにネ、先生と貴郎《あなた》の衣服《おめし》を持つて来ましたの、皆さんの所から纏《まと》まらなかつたものですから、大層遅くなりましてネ、――此頃は朝晩めつきり冷《ひや》つきますから、定めて御困りなすつたでせうネ」
「ハヽヽヽ僕も先生も未《ま》だ夏です、では其の風呂敷の中に我家の秋が包まれて居るんですか、どうも有難ウ」
「大和さん、男は礼など言ふものぢやありません、皆さんが喜んで張つたり縫つたり、仕事して下ださるんですから」
「しかし老女《おば》さん、そりや先生の為めにでせう、僕は御礼申さにやなりませんよ」
「まア、貴郎《あなた》は今時の書生さんの様でもないのネ」
 目を挙げて見れば、遠く連《つらな》れる高輪白金《たかなわしろかね》の高台には樹々の梢《こずえ》既《すで》にヤヽ黄を帯びて朝日に匂ひ、近く打ち続く後圃《こうほ》の松林には未《ま》だ虫の声々残りて宛《さ》ながら夜の宿とも謂《い》ひつべし、碧空《へきくう》澄める所には白雲高く飛んで何処《いづこ》に行くを知らず、金風《きんぷう》そよと渡る庭の面《おも》には、葉末の露もろくも散りて空しく地《つち》に玉砕す、秋のあはれは雁《かり》鳴きわたる月前の半夜ばかりかは、高朗の気|骨《ほね》に徹《とほ》り清幽の情肉に浸む朝《あした》の趣こそ比ぶるに物なけれ、今しも仰《あふい》で彼の天成の大画《たいぐわ》に双眸《さふぼう》を放ち、俯《ふ》して此の自然の妙詩に隻耳《せきじ》を傾
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