』と書いた瓦斯燈《ガスとう》が一道の光を放つてるヂヤないか、アヽ此の戸締もせぬ自由なる家の裡《うち》に、彼《か》の燃ゆるが如き憂国愛民の情熱を抱《いだい》て先生が、暫《し》ばしの夢に息《やす》んで居《ゐ》られるかと思へば、君、其の細きランプの光が僕の胸中の悪念を一字々々に読み揚げる様に畏《おそ》れるのだ」
「一寸お待ちなせエ、戸締の無《ね》い家たア随分不用心なものだ、何《ど》れ程貧乏なのか知らねいが」と彼の剽軽《へうきん》なる都々逸《どゝいつ》の名人は冷罵《れいば》す、
「君等に大人《たいじん》の心が了《わか》つてたまるものか」と村井は赫《くわつ》と一睨《いちげい》せり「泥棒の用心するのは、必竟《つまり》自分に泥棒|根性《こんじやう》があるからだ、世に悪人なるものなしと云ふのが先生の宗教だ、家屋の目的は雨露《うろ》を凌《しの》ぐので、人を拒《ふせ》ぐのでないと云ふのが先生の哲学だ、戸締なき家と云ふことが、先生の共産主義の立派な証拠ぢやないか」
「キヨウサンシユギつて云ふのは一体何のことかネ」と剽軽男《へうきんをとこ》は問ふ、
村井は五月蝿《うるさい》と云ひげに眉を顰《ひそ》めしが「そりや、其のあれだ、手短に言へば皆ンなで働いて皆ンなで用《つか》ふのだ、誰の物、彼の物なんて、そんな差別は立てないのだ――」
「ヘエー其奴《そいつ》ア便利だ、電車の三銭どころの話ヂヤねいや」
頭を台湾坊主に食はれたる他の学生、帽子を以て腰掛を叩《た》きつゝ「だが、我輩は常に篠田さんが何故無妻なのかを疑ふよ」
突然異様の新議案に羽山は真面目《まじめ》に首を傾けつ「何でも先生、亜米利加《アメリカ》で苦学して居た時に、雇主《やとひぬし》の令嬢に失恋したとか云ふことだ、先生の議論の極端過ぎるのも其の結果ヂヤ無いか知ラ」村井は首打ち振りつ、「僕は必ず社会革新の為に、一身の歓楽を犠牲にせられたのだと思ふ」
時に例の剽軽男《へうきんをとこ》、ニユーと首を延して声を低めつ「嬶《かゝあ》も矢ツ張り共産主義ツた様な一件ヂヤ無《ね》いかナ」
一座思はずワアツとばかりに腹を抱へぬ、鵜川老人は秘蔵の入歯を吹き飛ばせり、折から矢部《やべ》と云ふ発送係の男、頓驚《とんきやう》なる声を振り立てて、新聞|出来《しゆつたい》を報ぜしにぞ「其れツ」と一同先きを争うて走《は》せ出だせり、村井のみ悠々《いう/\》として最
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