て、簾《すだれ》が騒がしく動く紛れに、その合い間から、普通の女房とは思われない人の後ろへ引いた髪が見えたから、尼様たちのお住居《すまい》にだれが来ておられるのかと驚きましたよ」
 と中将が言いだした。姫君が立って隣室へお行きになった後ろ姿を見たのであろうと少将は思い、まして細かに見せたなら多大に心の惹《ひ》かれることであろう、あの方に比べれば昔の方はずっと劣っておいでになったのであるが、まだ忘られぬように恋しがっている人であるからと少将は心に思い、ひとり決めではなやかに事の発展していくことを予期して、
「お亡《かく》れになった姫君のことがお忘れになれませんで困っていらっしゃいます時に、思いがけぬ姫君をお見つけになりまして、今では明け暮れの慰めにして奥様がお世話をしておいでになるのですが、そのお姿を不思議にお目におとめになりましたのでございますね」
 こう語った。そんなおもしろい事実があったのかと興味のわいてきた中将は、どうした家の娘であろう、それとなく今少将が言うとおりに美しい人らしくほのかに見ただけの人からかえって深い印象の与えられたのを中将は感じた。くわしく聞こうとするのであるが、少将は事実をそのまま告げようとはせずに、
「そのうちおわかりになるでしょう」
 とだけ言っているのに対して、にわかに質問をしつこくするのも恥ずかしくなり、従者が、
「雨もやみました。日が暮れるでしょうから」
 と促《うなが》す声のままに中将は出かけようとするのであった。縁側を少し離れた所に咲いた女郎花《おみなえし》を手に折って「何にほふらん」(女郎花人のもの言ひさがにくき世に)と口ずさんで立っていた。
「人から何とか言われるのをさすがに恐れておいでになるのですね」
 などと古めかしい人らはそれをほめていた。
「ますますきれいにおなりになってりっぱだね。できることなら昔どおりの間柄になってつきあいたい」
 と尼君も言っているのであった。
「藤《とう》中納言のお家《うち》へは始終通っておいでになると見せておいでになって、気に入った奥さんでないらしくてね、お父様のお邸《やしき》に暮らしておいでになることのほうが多いということだね」
 こんな話も女房相手にしてから、浮舟へ、
「あなたはまだ私に隔て心を持っておいでになるのが恨めしくてなりませんよ。もう何事も宿命によるのだとあきらめておしまいになって、晴れ晴れしくなってくださいよ。この五、六年片時も忘れることができなくて悲しい悲しいと思っていた人のことも、あなたという方をそばで見るようになってからは忘れてしまいましたよ私は。あなたをお愛しになった方がたがこの世においでになっても、もうあなたはお亡《な》くなりになったものと今ではあきらめておいでになりましょうよ。何のことだってその当時ほどに人は思わないものですからね」
 と言うのを聞くうちにも姫君は涙ぐまれてくるのであった。
「私は何も隔てをお置きする気などはないのですけれども、不思議な蘇生《そせい》をしましてからは、何も皆夢のようにしか思い出せなくなっていまして、別の世界へ生まれた人はこんな気がするものであろうと感じられますから、身寄りというものがこの世にまだあるとも、思っていません私は、あなたの愛だけを頼みにしているのでございます」
 と言う浮舟《うきふね》の顔に純真さが見えてかわいいのを尼君は笑《え》みながら見守っていた。
 山の寺へ着いた中将を僧都も喜んで迎え、いろいろと世上の話を聞いたりした。その夜は宿泊することにして尊い声の出る僧たちに経を読ませて遊び明かした。弟の禅師とこまやかな話をしているうちに中将は、
「小野へ寄って来たがね、身にしむ思いを味わわせられた。出家したあとまであれだけ高雅な趣味のある生活のできる人は少ないだろうね」
 こんなことを言い、続いて、
「風が御簾《みす》を吹き上げた時に、髪の長い美しい人を見た。あらわになったと気のついたように立って行ったが、後ろ姿が平凡な人とは見えなかった。ああした所に若い貴女などは置いていいものでないね。明け暮れ見る人といっては坊様だけだから、のぞく者がないかと使う神経が弛緩《ちかん》してしまうからね、気の毒だよ」
 こんな話をした。
「この春|初瀬《はせ》へ詣《まい》って不思議な縁でおつれになった若いお嬢さんだということです」
 禅師は自身の携わった事件でなく知るはずもなかったから細かには言わない。
「かわいそうな人なのだね、どんな家の人だろう。世の中が悲しくなったればこそそうした寺へ来て隠れていたのだろうからね。昔の小説の中のことのようだ」
 と中将は言った。
 翌日山からの帰途にもまた、
「通り過ぎることができぬ気になって」
 こんなことを言って小野の家へ立ち寄った。ここでは迎えることを期していて食事の仕度《したく》もできていた。昔どおりに給仕をする少将の尼の普通に異なった袖口《そでぐち》の色も悪い感じはせず美しく思われた。尼夫人は昨日《きのう》よりもまだひどい涙目になって中将を見た。感謝しているのである。話のついでに中将が、
「このお家《うち》に来ておいでになる若い方はどなたですか」
 と尋ねた。めんどうになるような気はするのであったが、すでに隙見《すきみ》をしたらしい人に隠すふうを見せるのはよろしくないと思った尼君は、
「昔の人のことをあまり心に持っていますのは罪の深いことになると思いまして、ここ幾月か前から娘の代わりに家へ住ませることになった人のことでしょう。どういう理由か沈んだふうでばかりいまして、自分の存在が、人に知れますことをいやがっておりますから、こんな谷底へだれがあなたを捜しに来ますかと私は慰めて隠すようにしてあげているのですが、どうしてその人のことがおわかりになったのでしょう」
「かりに突然求婚者になって現われた私としましても、遠い路《みち》も思わず来たということで特典を与えられなければならないのですからね、ましてあなたが昔の人と思ってお世話をしていらっしゃる方であれば、私の志を昔に継いで受け入れてくだすっていいはずだと思います。どんな理由で人生を悲観していられる方なのですかねえ。慰めておあげしたく思われますよ」
 好奇心の隠せぬふうで中将は言った。帰りぎわに懐紙へ、

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あだし野の風になびくな女郎花《をみなへし》われしめゆはん路《みち》遠くとも
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 と書いて、少将の尼に姫君の所へ持たせてやった。尼君もそばでいっしょに読んだ。
「返しを書いておあげなさい。紳士ですから、それがあとのめんどうを起こすことになりますまいからね」
 こう勧められても、
「まずい字ですから、どうしてそんなことが」
 と言い、浮舟の聞き入れないのを見て、失礼になることだからと尼君が、
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お話しいたしましたように、世間|馴《な》れぬ内気な人ですから、

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移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花浮き世をそむく草の庵《いほり》に
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 と書いて出した。はじめてのことであってはこれが普通であろうと思って中将は帰った。
 中将は小野の人に手紙を送ることもさすがに今さら若々しいことに思われてできず、しかもほのかに見た姿は忘れることができずに苦しんでいた。厭世《えんせい》的になっているのは何の理由であるかはわからぬが哀れに思われて、八月の十日過ぎにはまた小鷹狩《こたかが》りの帰りに小野の家へ寄った。例の少将の尼を呼び出して、
「お姿を少し隙見で知りました時から落ち着いておられなくなりました」
 と取り次がせた。浮舟の姫君は返辞をしてよいことと認めず黙っていると、尼君が、
「待乳《まつち》の山の(たれをかも待乳の山の女郎花秋と契れる人ぞあるらし)と見ております」
 と言わせた。それから昔の姑《しゅうとめ》と婿は対談したのであるが、
「気の毒な様子で暮らしておいでになるとお話しになりました方のことをくわしく承りたく思います。満足のできない生活が続くものですから、山寺へでもはいってしまいたくなるのですが、同意されるはずもない両親を思いまして、そのままにしています私は、幸福な人には自分の沈んだ心から親しんでいく気になれませんが、不幸な人には慰め合うようになりたく思われてなりません」
 中将は熱心に言う。
「不しあわせをお話しになろうとなさいますのには相当したお相手だと思いますけれど、あの方はこのまま俗の姿ではもういたくないということを始終言うほどにも悲観的になっています。私ら年のいった人間でさえいよいよ出家する時には心細かったのですから、春秋に富んだ人に、それが実行できますかどうかと私はあぶながっています」
 尼君は親がって言うのであった。姫君の所へ行ってはまた、
「あまり冷淡な人だと思われますよ。少しでも返辞を取り次がせておあげなさいよ。こんなわび住まいをしている人たちというものは、自尊心は陰へ隠して人情味のある交際をするものなのですよ」
 などと言うのであるが、
「私は人とどんなふうにものを言うものなのか、その方法すら知らないのですもの。私は何の点でも人並みではございません」
 浮舟の姫君はそのまま横になってしまった。中将はあちらで、
「どちらへおいでになったのですか、御冷遇を受けますね。『秋を契《ちぎ》れる』はただ私をおからかいになっただけなのですか」
 などと尼君を恨めしそうに言い、

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松虫の声をたづねて来しかどもまた荻原《をぎはら》の露にまどひぬ
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 と歌いかけた。
「まあおかわいそうに、歌のお返しでもなさいよ」
 尼夫人はこう姫君に迫るのであったが、そんな恋愛の遊戯めいたことをする気はなく、また一度歌を詠《よ》めば、こうした時々に返しを返しをと責められるであろうことも煩わしいと思う心から、ものも言わずにいるのを見て尼夫人も女房もあまりにふがいない人と思うらしかった。尼君は若い時代に機智《きち》を誇った才女であったのであろう。

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「秋の野の露分け来たる狩りごろも葎《むぐら》茂れる宿にかこつな
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 迷惑がっておられます」
 と言っているのを、浮舟は聞きながら、こうしたことからまだ自分の世の中にいることが昔の人々に知れ始めることにならないであろうかと苦しく思っていた。姫君の気持ちも知らずに、昔の姫君と同じくこの婿君をもなつかしがることの多い女房たちは、
「ただちょっと深い意味でもなくお立ち寄りになった方ですから、お話をなすってもよろしくない方へ進出しようなどとは大丈夫なさいませんから、御結婚問題などは別にして、好意のある程度のお返辞だけはしておあげなさいまし」
 などと言い、身体《からだ》も引き動かすばかりに言うのであった。さすがに年を取った女たちは尼君が柄にもなく若々しく歌らしくもない歌をいい気で詠《よ》んで中将の相手をしていることは興ざめることと思っているのである。
 なんという不幸な自分であろう、捨てるのに躊躇《ちゅうちょ》しなかった命さえもまだ残っていて、この先どうなっていくのであろう、全く死んだ者として何人《なんびと》からも忘れられたいと思い悩んで、横になったままの姿で浮舟《うきふね》はいた。中将は何かほかにも愁《うれ》わしいことがあるのか、ひどく歎息《たんそく》をして、笛を鳴らしながら「鹿《しか》の鳴く音《ね》に」(山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ)などと口ずさんでいる様子は相当な男と見えた。
「ここへまいっては昔の思い出に心は苦しみますし、また新しく私をあわれんでくだすってよい方はその心になってくださらないし『世のうき目見えぬ山路』とも思われません」
 と恨めしそうに言い、帰ろうとした時に、尼君が、
「あたら夜を(あたら夜の月と花とを同じくは心知れらん人に見せばや)お帰りになるのですか」
 と言って、御簾《みす》の所へ出て来た。
「もうたくさんですよ。山里も悲しいもの
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