に』(われはありと親には申したれ)においでになっても、私はそっと行きますよ。つまらぬ身の上ですから、それだけはあなたのために遠慮されますがね」
 と母は泣きながら言っていた。
 薫《かおる》からまたも手紙の使いが来た。病気と聞いて今日はどうかと尋ねて来たのである。
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自身で行きたいのですが、いろいろな用が多くて実行もできません。近いうちにあなたを迎えうることになって、かえって時間のたつことのもどかしさに気のあせるのを覚えます。
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 こんなことも書かれてあった。
 兵部卿《ひょうぶきょう》の宮は昨日の手紙に返事のなかったことで、
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まだ迷っているのですか、「風の靡《なび》き」(にけりな里の海人《あま》の焚《た》く藻《も》の煙心弱さに)のたよりなさに以前よりもいっそうぼんやりと物思いを続けています。
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 などとこのほうは長かった。この前の前、雨の降った日に山荘で落ち合った使いがまたこの日出逢うことになって、大将の随身は式部|少輔《しょう》の所でときどき見かける男が来ているのに不審を覚えて、
「あんたは何の用でたびたびここへ来るのかね」
 と訊《き》いた。
「自分の知った人に用があるもんだから」
「自分の知った人に艶《えん》な恰好《かっこう》の手紙などを渡すのかね。理由《わけ》がありそうだね、隠しているのはどんなことだ」
「真実《ほんとう》は守《かみ》(時方は出雲権守《いずものごんのかみ》でもあった)さんの手紙を女房へ渡しに来るのさ」
 随身は想像と違ったこの答えをいぶかしく思ったがどちらも山荘を辞して来た。随身は利巧《りこう》者であったから、つれて来ている小侍に、
「あの男のあとを知らぬ顔でつけて行け、どの邸《やしき》へはいるかよく見て来い」
 と命じてやった。さきの使いは兵部卿の宮のお邸へ行き、式部少輔に返事の手紙を渡していたと小侍は帰って来て報告した。それほどにしてうかがわれているとも宮のほうの侍は気がつかず、またどんな秘密があることとも知らなかったので近衛《このえ》の随身に見あらわされることになったのである。
 随身は大将の邸へ行き、ちょうど出かけようとしている薫に、返事を人から渡させようとした。今日は直衣《のうし》姿で、六条院へ中宮が帰っておいでになるころであったから伺候しようと薫はしていたのである。前駆を勤めさせる者も多く呼んでなかった。随身が取り次ぎを頼む人に、
「妙なことがあったものですから、よく調べてと思いましてただ今までかかりました」
 と言っているのを片耳にはさみながら、乗車するために出て来た薫が、
「何かあったか」
 と聞いた。取り次いだ人もいることであったから随身は黙ってかしこまってだけいた。様子のありそうなことであると見たが薫はこのまま出かけてしまった。
 中宮《ちゅうぐう》がまた少し御病気でおありになるということで宮達も皆集まって来ておいでになった。高官たちもたくさんまいっていて騒いでいたがたいしたことはおありにならなかった。内記は太政官の吏員であったから、役向きのことが忙しかったのかおそくなって出て来た。そして宇治の返事の来たのを宮に、台盤所《だいばんどころ》へ来ておいでになって戸口へお呼びになった宮へ差し上げていたのをちょうどその時中宮の御前から出て来た大将が何心なく横目に見て、大事な恋人からよこしたものらしい文《ふみ》であるとおかしく思い、ちょっと立ちどまっていた。宮は引きあけて読んでおいでになる、紅の薄様《うすよう》に細かく書かれた手紙のようである。文に夢中になっておいでになる時に、左大臣も御前を立って外のほうへ歩いて来るのを見て、薫は自身の休息室から今出るふうにして大臣の来たことを宮へ御注意するための咳《せき》払いをした。これで宮がお隠しになったあとへ都合よく大臣は来ることになった。宮は驚いたふうに直衣《のうし》の紐《ひも》を掛けておいでになった。薫も兄の大臣の前に膝《ひざ》を折り、
「私はもう下がってまいろうと思います。いつもの物怪《もののけ》は久しく禍《わざわい》をいたしませんでしたのに恐ろしいことでございます。叡山《えいざん》の座主《ざす》をすぐ呼びにやりましょう」
 とだけ言い、忙しそうに立って行った。
 夜のふけたころだれも皆六条院から退出した。左大臣は宮をお先立てして幾人もの子息の高官、殿上人を率いていて東の御殿へ行った。右大将はそれに少し遅れて自邸へ帰るのであった。随身が告げることのありそうなふうであったのを怪しく思っていたから、前駆の人たちなどが馬からおりて炬火《たいまつ》に火をつけさせたりしている時に、薫は随身を近くへ呼んだ。
「さっきの話はどんなことか」
「今朝《けさ》宇治に出雲権守時方朝臣《いずもごんのかみときかたあそん》の所におります侍が来ておりまして、紫の薄様に書いて桜の枝につけられました手紙を西の妻戸から女房に渡しているのを見ましてございます。見つけまして何かと聞きただしますと、申すことが作りごとらしいものでございますから、信用はできないと存じまして、小侍をそっとつけてやりますと、兵部卿の宮のお邸へまいり、式部|少輔《しょう》にその返事を渡したそうでございます」
 と言う。薫は不思議なことであると思い、
「その返事をあちらではどんなふうにして出したか」
「それは見なかったのでございます。別の戸口から出して渡したらしいのでございます。下人から聞きますと赤い色紙のきれいなものだったと申すことです」
 この言葉から思い合わせると、宮の見ておいでになった文がそれに相違ないと薫は思った。そんなにまで苦心をして調べ出して来たのは気のきいた男であると思ったが、人がすでに集まって来ていたからそれ以上の細かいことは言わせずに済ませた。
 薫は車で来る途々《みちみち》の話を思い、恐ろしいほど異性に対しては神経の過敏に働く宮である、どんな機会にあの人のことをお知りになったのであろう、そしてどうして誘惑をお始めになったのであろう、あの田舎《いなか》の宇治に住ませてあれば、そうした危険には隔離されているもののように思い、安心していたのはなんたる自分の幼稚な考え方であったろう、それにしても互いに知らぬ人の愛人と恋愛の遊戯をすることも世間にはあるであろうが、自分と宮とは親友の間柄で、人が怪しむほどにも助けられ、お助けして恋の媒介をすら勤めた自分の愛人を誘惑などあそばされてよいわけはないと思うと不快でならなかった。西の対の夫人を非常に恋しく思いながら、ある線を越えて行かない自分はりっぱでないか、しかも親密にするのは宮家へはいってからの夫人としてではない、宮に対してやましい思いをお持ちするのがいやで、恋しい心を抑制しているのは愚かなことであったかも知れぬ、ずっとこのごろ宮は御病気のようで始終お見舞いの人々に取り巻かれておいでになりながら、どうして宇治へのお手紙は書かれたのであろう、またどうしてお通いになることができたのであろう、遠くはるかな恋の道ではないか、だれにも想像のつかぬ所へ行ってお泊まりになることがあり、所在を捜されておいでになる時があるという御評判も聞いた、罪な恋におぼれて御|煩悶《はんもん》から名のない病気におかかりになっているのであろう、昔のことを思い出しても、あの山荘へお通いになることの可能でない間は見てもいられぬほどお気の毒に思いやつれておいでになったものであると薫は思い、またいろいろと思い合わせてみると、女が非常に物思いをしていたこともこの理由があってのことであったと、一つが明らかになると次々にうなずかれていくことも多くて女がうとましく思われた。完全な人というものは少ないものである、可憐《かれん》でおおように見えながら媚態《びたい》の備わったのが彼女である、宮のお相手には全く似合わしいものであるから、すべて今からお譲りしてしまいたい気も薫はしたが、正妻として結婚した女にそうした過失をされたというのでなく、今後も愛人としての彼女を失ってしまっては恋しくなるであろうと、未練らしく思われないこともなかった。自分が捨ててしまえば必ず宮はどこかへ呼び寄せてお置きになるであろう、女がどんな不名誉なことになろうとも思いやりはおできになるまい、今までからそんな人を二、三人も女一《にょいち》の宮《みや》の女房に推挙されたことがある、そうした境遇になった時、自分は見るに忍びないつらさを味わうであろうと思い、捨てる気は起こらないで、どうするつもりかも見たく思い、家へ帰った。薫は手紙を宇治へ書いた。
 大将は例の随身を使いに選び、自身で人のない時にそば近くへ呼んだ。
「時方朝臣は今でも仲信《なかのぶ》の家に通っているか」
「そうでございます」
「宇治へいつもその使いをやるのだね。零落をしていた女だから時方も恋をしていたことがあるかもしれないね」
 と歎息をして見せ、
「人に見られないようにして行け、見られれば恥ずかしいよ」
 と言った。時方が始終大将のことをいろいろと訊《き》きたがり、山荘の中のことを聞いていたのは、自身のためでなく他の方のためにしていたことであったに違いないし、大将もまたそれを隠そうとしているのであると、物なれた思いやりをして何とも問わず、薫も低い人間にくわしいことは知らせたくないと思っているのであった。
 山荘では大将家からの使いが平生よりもたびたび来ることでも不安が覚えられる浮舟の君であった。手紙はただ、

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浪《なみ》こゆる頃《ころ》とも知らず末の松まつらんとのみ思ひけるかな

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人にこの歌をお話しになって笑ってはいけませんよ。
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 と書かれてあるだけであったが、いぶかしいと思った瞬間から姫君の胸はふさがってしまった。相手の言おうとしていることを知っているような返事を書くことも恥ずかしく、誤聞であろうと言いわけをするのもやましく思われて、手紙をもとのように巻き、
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どこかほかへのお手紙かと存じます、身体《からだ》を悪くしていまして、今日は何も申し上げられません。
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と書き添えて返した。
 薫《かおる》はそれを見て、さすがに才気の見えることをする、あの人にこんなことができるとは思わなかったと思い、微笑をしているのは、どこまでも憎いというような気にはなっていないからであろう。
 正面からではないが薫がほのめかして来たことで浮舟《うきふね》の煩悶はまたふえた。とうとう自分は恥さらしな女になってしまうのであろうといっそう悲しがっているところへ右近が来て、
「殿様のお手紙をなぜお返しになったのでございますか。縁起の悪いことでございますのに」
 と言った。
「私に理由《わけ》のわからないことが書かれていたから、持って行く先をまちがえたのでしょうって書いて」
 浮舟から聞くまでもなく、不思議に思ってすでに手紙は使いへ渡す前に右近が読んであったのである。意地悪な右近ではないか。見たとは姫君へ言わずに、
「あなた様はほんとうにお気の毒でございます。お苦しいのはお三人ともですけれどね。殿様は秘密をお悟りになったらしゅうございますね」
 と言われて、浮舟の顔はさっと赤くなり、ものを言うこともしなかった。手紙を見たとは思わずに、来た使いなどから薫の様子が伝えられたのであろうと思っても、だれがそう言っているかとも問えなかった。右近と侍従がどう想像しているであろう、恥ずかしいことである、自発的に惹《ひ》き起こした恋愛問題ではないが、情けない運命であると、横たわったまま思い沈んでいると、侍従と二人で右近は忠告を試みようとした。
「私の姉は常陸《ひたち》で二人の情人を持ったのでございます。どの階級にもそうした関係はあるものでございましてね、どちらからも深く思われていたのでございますから、どうすればよいかと迷っていながらも、姉はあとのほうの男を少しよけいに愛していたのですね、それを嫉妬《しっと
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