ち》が中にあることを思うと躊躇《ちゅうちょ》がされて実行ができませんと、こんなことを書いて来ておりました」
「私だけはだれも皆恐ろしがるその山道をいつまでも飽かずに出て来る人なのですね。どんな深い宿縁があってのことかと思うのは身にしむことですよ」
例のように薫は涙ぐんでいた。
「ではその小さい簡単な家というのへ手紙をやってください。あなた自身で出かけてくれませんか」
と言う。
「あなた様の御用を勤めますことは喜んでいたしますが、京へ出ますことはいやでございましてね、二条の院へさえ私はまだ伺わないのでございます」
「いいではありませんか、いちいちあちらへ報告されるのであれば遠慮もいるでしょうが、愛宕《あたご》山にこもった上人《しょうにん》も利生方便《りしょうほうべん》のためには京へ出るではありませんか。仏へ立てた誓いを破った人の願いのかなうようにされることも大|功徳《くどく》じゃありませんか」
「でも『人わたすことだになきを』(何をかもながらの橋と身のなりにけん)と申しますような老朽した尼が、ある事件に策動したという評判でも立ちましてはね」
と言い、弁が躊躇して行こうとしないのを、
「ちょうどそんな仮住みをしているのは都合がよいというものですから、そうしてください」
例の薫のようでもなくしいて言い、
「明後日《あさって》あたりに車をよこしましょう。そして仮住居の場所を車の者へ教えておいてください。私が訪《たず》ねて行くことがあっても無法なことなどできるものではないから安心なさい」
と微笑しながら言うのを弁は聞いていて、迷惑なことが引き起こされるのではなかろうかと思いながらも、大将は浮薄な性質の人ではないのであるから、自分のためにも慎重に考えていてくれるに違いないという気になった。
「それでは承知いたしました。お邸《やしき》とは近いのでございますから、そちらへお手紙を持たせておつかわしくださいませ。平生行きません所へそのお話を私が独断《ひとりぎめ》で来てするように思われますのも、今さら伊賀刀女《いがとうめ》(そのころ媒介をし歩いた種類の女)になりましたようできまりが悪うございます」
「手紙を書くことはなんでもありませんがね、人はいろいろな噂《うわさ》をしたがるものですからね、右大将は常陸守《ひたちのかみ》の娘に恋をしているというようなことが言われそうで危険《けんのん》ですよ。その常陸の旦那《だんな》は荒武者なんだってね」
と薫が言ったので弁は笑ったが、心では姫君がかわいそうに思われた。
暗くなりかかったので大将は帰って行くのであった。林の下草の美しい花や、紅葉《もみじ》を折らせた薫は夫人の宮にそれらをお見せした。りっぱな方なのであるが敬遠した形で、良人《おっと》らしい親しみを薫は持たないらしい。帝《みかど》からは普通の父親のように始終尼宮へお手紙で頼んでおいでになるのでもあって、薫は女二《にょに》の宮《みや》をたいせつな人にはしていた。宮中、院の御所へのお勤め以外にまた一つの役目がふえたように思われるのもこの人に苦しいことであった。
薫は弁に約束した日の早朝に、親しい下級の侍に、人にまだ顔を知られていぬ牛付き男をつれさせて山荘へ迎えに出した。荘園のほうにいる男たちの中から田舎《いなか》者らしく見えるのを選んでつけさせるように薫は命じてあった。
ぜひ出てくるようにとの薫の手紙であったから、弁の尼はこの役を勤めることが気恥ずかしく、気乗りもせず思いながら化粧をして車に乗った。野路《のみち》山路《やまみち》の景色《けしき》を見ても、薫が宇治へ来始めたころからのことばかりがいろいろと思われ、総角《あげまき》の姫君の死を悲しみ続けて目ざす家へ弁は着いた。簡単な住居《すまい》であったから、気楽に門の中へ車を入れ、自身の来たことをついて来た侍に言わせると、姫君の初瀬詣《はせもう》での時に供をした若い女房が出て来て、車から下《お》りるのを助けてくれた。
つまらぬ庭ばかりをながめて日を送っていた姫君は、話のできる人の来たのを喜んで居間へ通した。親であった方に近く奉公した人と思うことで親しまれるのであるらしい。
「はじめてお目にかかりました時から、あなたに昔の姫君のお姿がそのまま残っていますことで、始終恋しくばかりお思いするのでしたが、こんなにも世の中から離れてしまいました身の上では兵部卿《ひょうぶきょう》の宮様のほうへも伺いにくくてまいれませんほどで、ついお訪《たず》ねもできないのでございました。それなのに、右大将が御自分のためにぜひあなたへお話を申しに行けとやかましくおっしゃるものですから、思い立って出てまいりました」
と弁は言った。姫君も乳母《めのと》もりっぱな風采《ふうさい》を知っていた大将であったから、まだあの話を忘れ
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