源氏物語
東屋
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)袖を濡《ぬ》らしけり

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)葉山|繁山《しげやま》を分け入る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]ありし世の霧来て袖を濡《ぬ》らしけりわり
[#地から3字上げ]なけれども宇治近づけば  (晶子)

 源右大将は常陸守《ひたちのかみ》の養女に興味は覚えながらも、しいて筑波《つくば》の葉山|繁山《しげやま》を分け入るのは軽々しいことと人の批議するのが思われ、自身でも恥ずかしい気のされる家であるために、はばかって手紙すら送りえずにいた。ただ弁の尼の所からは母の常陸夫人へ、姫君を妻に得たいと薫《かおる》が熱心に望んでいることをたびたびほのめかして来るのであったが、真実の愛が姫に生じていることとも想像されず、薫のすぐれた人物であることは聞き知っていて、この縁談の受けられるほどの身の上であったならと悲観を母はするばかりであった。
 常陸守の子は死んだ夫人ののこしたのも幾人かあり、この夫人の生んだ中にも父親が姫君と言わせて大事にしている娘があって、それから下にもまだ幼いのまで次々に五、六人はある。上の娘たちには守《かみ》が骨を折って婿選びをし、結婚をさせているが、夫人の連れ子の姫君は別もののように思って、なんらの愛情も示さず、結婚について考えてやることもしないのを、妻は恨めしがっていて、どうかしてすぐれた良人《おっと》を持たせ、姫君を幸福な人妻にさせてみたいと明け暮れそれを心がけていた。容貌《ようぼう》が十人並みのものであって、平凡な守《かみ》の娘と混ぜておいてもわからぬほどの人であれば、こんなに自分は見苦しいまでの苦労はしない、そうした人たちとは別もののように、もったいない貴女《きじょ》のふうに成人した姫君であったから、心苦しい存在なのであると夫人は思っていた。娘がおおぜいいると聞いて、ともかくも世間から公達《きんだち》と思われている人なども結婚の申し込みに来るのがおおぜいあった。前夫人の生んだ二、三人は皆相当な相手を選んで結婚をさせてしまった今は、自身の姫君のためによい人を選んで結婚をさせるだけでいいのであると思い、明け暮れ夫人は姫君を大事にかしずいていた。守《かみ》も賤《いや》しい出身ではなかった。高級役人であった家の子孫で、親戚《しんせき》も皆よく、財産はすばらしいほど持っていたから自尊心も強く、生活も派手《はで》に物好みを尽くしている割合には、荒々しい田舎《いなか》めいた趣味が混じっていた。若い時分から陸奥《むつ》などという京からはるかな国に行っていたから、声などもそうした地方の人と同じような訛《なまり》声の濁りを帯びたものになり、権勢の家に対しては非常に恭順にして恐れかしこむ態度をとる点などは隙《すき》のない人間のようでもあった。優美に音楽を愛するようなことには遠く、弓を巧みに引いた。たかが地方官階級だと軽蔑《けいべつ》もせずよい若い女房なども多く仕えていて、それらに美装をさせておくことを怠らないで、腰折歌《こしおれうた》の会、批判の会、庚申《こうしん》の夜の催しをし、人を集めて派手《はで》に見苦しく遊ぶいわゆる風流好きであったから、求婚者たちは、やれ貴族的であるとか、守の顔だちが上品であるとか、よいふうにばかりしいて言って出入りしている中に、左近衛《さこんえ》少将で年は二十二、三くらい、性質は落ち着いていて、学問はできると人から認められている男であっても、格別目だつ才気も持たないせいで、第一の結婚にも破れたのが、ねんごろに申し込んで来ていた。常陸夫人は多くの求婚者の中でこれは人物に欠点が少ない、結婚すれば不幸な娘によく同情もするであろう、風采《ふうさい》も上品である、これ以上の貴族は、どんなに富に寄りつく人は多いとしても、地方官の家へ縁組みを求めるはずはないのであるからと思い、姫君のほうへその手紙などは取り次いで、返事をするほうがよいと認める時には、書くことを教えて書かせなどしていた。夫人はひとりぎめをして、守は愛さないでも自分は姫君の婿を命がけで大事にしてみせる、姫君の美しい容姿を知ったなら、どんな人であっても愛せずにはおられまいと思い立って、八月ぐらいと仲人《なこうど》と約束をし、手道具の新調をさせ、遊戯用の器具なども特に美しく作らせ、巻き絵、螺鈿《らでん》の仕上がりのよいのは皆姫君の物として別に隠して、できの悪いのを守の娘の物にきめて良人《おっと》に見せるのであったが、守は何の識別もできる男でなかったからそれで済んだ。座敷の飾りになるという物はどれもこれも買い入れて、秘蔵娘の居間はそれらでいっぱいで、
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