源氏物語
早蕨
紫式部
與謝野晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)早蕨《さわらび》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日の光|林藪《やぶ》し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]早蕨《さわらび》の歌を法師す君に似ずよき言葉を
[#地から3字上げ]ば知らぬめでたさ (晶子)
「日の光|林藪《やぶ》しわかねばいそのかみ古《ふ》りにし里も花は咲きけり」と言われる春であったから、山荘のほとりのにおいやかになった光を見ても、宇治の中の君は、どうして自分は今まで生きていられたのであろうと、現在を夢のようにばかり思われた。四季時々の花の色も鳥の声も、明け暮れ共に見、共に聞き、それによって歌を作りかわすことをし、人生の心細さも苦しさも話し合うことで慰めを得ていた。それ以外に何の楽しみが自分にあったであろう、美しいとすることも、身にしむことも語って自身の感情を解してくれる姉君を、そのかたわらから死に奪われた人であったから、暗い気持ちをどうすることもできず、父宮のお亡《かく》れになった時の悲しみにややまさった悲しさ恋しさに、日のたつのも悟らぬほど歎き続けているが、命数には定まったものがあって、死にたくても死なれぬのも人生の悲哀の一つであると見られた。
御寺《みてら》の阿闍梨《あじゃり》の所から、
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年が変わりましてのちどんな御様子でおいでになりますか。御仏《みほとけ》へのお祈りは始終いたしております。今になりましてはあなた様お一方のために幸福であれと念じ続けるばかりです。
[#ここで字下げ終わり]
などという手紙を添え、蕨《わらび》や土筆《つくし》を風流な籠《かご》に入れ、その説明としては、
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これは童子どもが山に捜して御仏にささげたものです、初物です。
[#ここで字下げ終わり]
とも書かれてあった。悪筆で次の歌などは大形《おおぎょう》に一字ずつ離して書いてある。
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君にとてあまたの年をつみしかば常を忘れぬ初蕨なり
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女王《にょおう》様に読んでお聞かせ申してください。
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と女房あてにしてあった。一所懸命に考え出した歌であろうと想像されて、つたない中に言ってある心を身にしむように中の君は思い、筆任せに、それほど深くお思いにならぬことであろうと思われることを、多くの美しい言葉で飾ってお送りになる方の文《ふみ》よりもこのほうに心の引かれる気がして、涙さえこぼれてきたために、返事を自身で書いた。
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この春はたれにか見せんなき人のかたみに摘める峰のさわらび
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使いには纏頭《てんとう》が出された。
盛りの美しさを備えた人が、いろいろな物思いのために少し面痩《おもや》せのしたのもかえって貴女《きじょ》らしい艶《えん》な趣の添ったように見え、総角《あげまき》の姫君にもよく似ていた。いっしょにいたころはどちらにも特殊な美しさがあって、似ているように見えなかったのであるが、今ではうかとしておれば大姫君であるという錯覚が起こるのを、遺骸《いがい》だけでも永《なが》くとどめてながめていられるものだったならばと、朝夕に恋しがっていた源中納言の夫人になっておいでになればよかったものを、運命のそれを許さなかったのが惜しいと思い、女房たちは残念がっていた。薫《かおる》の家のほうから始終出て来る人があってそちらのこともこちらの様子も双方でよく知っていた。まだ総角の姫君に死別した悲しみに茫然《ぼうぜん》となっていて、涙目の人になっていると中納言のことの言われているのを聞いて中の君は、中納言の姉君に持っていた愛は浅薄なものではなかったと、いっそう今になって身にしむようにその人の恋が思われるのであった。
兵部卿《ひょうぶきょう》の宮は宇治へお通いになることが近ごろになっていっそう困難になり、不可能にさえなったために、中の君を京へ迎えようと決心をあそばした。
御所の内宴などがあって騒がしいころを過ごしてから薫は、心一つに納めかねるような愁《うれ》いも、その他のだれに話すことができようと思い、匂宮《におうみや》の御殿をお訪《たず》ねした。しめやかな早春の夕べの空の見える所に宮は出ておいでになった。十三|絃《げん》をお弾《ひ》きになりながら、例のお好きな梅の香を愛してもいられたのである。薫はその梅の花の下の枝を少し折って、手に持ちながらはいって来た。艶《えん》な感じが覚えられることであった。宮はこの早春の夕べにふさわしい客をうれしくお思いになり、
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折る人のこころに通ふ花なれや色にはいでず下ににほへる
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とお言いになると、
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「見る人にかごと寄せける花の枝を心してこそ折るべかりけれ
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私が困ります」
薫も冗談《じょうだん》にしてこんなことを申し上げた。並べて見るに最もよく似合った若い貴人と見えた。しんみりとした話になっていって、どうしているかと宇治のことをまず宮はお聞きになった。薫も恋人に死なれた悲しみを言い、初めから今までのその人に関する物思いの連続を、そのおりあのおりと、身にしむようにも、美しくも泣きながら、笑いながらというように話し出したのを、聞いておいでになって、繊細な感情に富んでおいでになり、涙もろい癖の宮は、他人のことながらも、袖《そで》を絞るほどの涙をお流しになって、熱心な受け答えをあそばされるのであった。天もまた哀愁の人に同情するかのように、空を霞《かすみ》がぼんやりこめて、夜になってからは烈《はげ》しく風も吹き出し、まだ冬らしい寒さが寄ってきて灯《ひ》も消えた。「春の夜の闇《やみ》はあやなし」というようなたよりなさではあったが、話す人、聞く人もそれを障《さわ》りにしてそのままにやむ話ではなかった。どんなに語っても中納言は心の晴れることを覚えないままで深更になった。世の中にまたたぐいもないような精神的愛に止まったという薫の話を、必ずしも終わりまでそうではなかったであろうと宮のお思いになるのも、御自身から割り出してお考えになるからであろう。そうではあるが他の点では御想像が穎敏《えいびん》で、薫の気持ちをよく理解され、悲しみも慰めるに足るほどな言葉をお出しになった。一つは御容姿のお美しさが心をよく賺《すか》して、結ぼれの解けぬ歎きを少しずつ語っていかれるのは非常に気の楽になることのように薫に思われたのである。
宮も近日に中の君を京へお迎えになろうとすることで中納言へ御相談をあそばされると、
「非常にけっこうなことでございます。あのままになりましては私の責任になりますことと苦しく思っておりました。昔の人の名残《なごり》の家も、あの女王があなた様のものであれば、今では私のお訪《たず》ねして行く名目に困っていたのでした。しかしただのお世話は十分に私がせねばならぬ方だと思っていますが、そのことで御感情を害するようなことはないでしょうか」
と薫は言い、なお故人が以前に、自分と同じものと思えと言い、中の君と自分の結婚を望んだことも少しお話ししたが、あの中の君と兄妹《きょうだい》のような心で語っていた寝室の一夜のことには触れなかった。心の中では、こんなにも悲しまれる日の心の慰めとして妻に得ておくべきであって、宮がなされようとするがごとく京へその人を迎えることもできたのであったと、残念な気持ちがようやく深くなっていくのである。今はもう思っても何の効《かい》もないことを、しかも始終それを思いつめておれば、なしてならぬことをなしたい心も出てくるであろう、それは宮の御ため、中の君、自分のためにも人笑われなことに違いないとこうこの人は反省した。それにしても中の君が京へ移ることになっての仕度《したく》その他について、自分のほかにだれも力になる人はないのであると薫は思い、手もとでいろいろな品の新調などをさせていた。
宇治でもきれいな若女房、童女などを捜して雇い入れ、女房たちは幸福感に浸っているのであるが、いよいよ父宮の遺愛の宇治の山荘を離れて行くことになるのかと中の君は心細くて歎かればかりする、そうかといって寂しさに堪えてここに独居する決心もできそうになかった。宮から熱愛はしていながらもこのままでは自然に遠い仲になっていくかもしれぬのをどう思っているかと恨んでおよこしになるのも少しお道理に思われるところもあったので、どうすればよいかとばかり煩悶《はんもん》する中の君であった。二月になったらすぐということであったから、近づくにしたがい咲く花の蕾《つぼみ》も大きくふくらんでくるのを見ては、春の花のすべてを見ずに行くことが心残りに思われ、帰雁《きがん》のように霞《かすみ》の山を捨てて行く先は、自身の家でもないことが不安で、宮の愛が永久に変わらぬものと見なされぬ心から寂しい未来も考えられてひそかに思い悩んでいるのであった。
姉の服喪の期間は三月であって、除服の禊《みそぎ》を行なうことになっているのも飽き足らぬことに中の君は思った。母夫人とは顔も知らぬほどの縁であったから、恋しいとは思いようもなかったが、そのかわりとして子の服喪を姉のためにしたい心であったが、これは定まったことでかってにはならなかった。禊の日の女王の車、前駆を勤める人々、守刀などが薫のほうから送られた。
[#ここから2字下げ]
はかなしや霞《かすみ》のころもたちしまに花の紐《ひも》とく折《をり》も来にけり
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添えられたこの歌のように、春の花のいろいろに似た衣服も贈られたのであった。京へ移って行った日に入り用な纏頭《てんとう》に使う品、それらもあまり大形《おおぎょう》には見せずこまごまと気をつけてそろえて届けられたのである。何かのおりには親身な志を見せる薫を喜んで、女房たちは、
「こんなにまでは御兄弟だってなさるものではございませんよ」
などと中の君に教えるのであった。こうした老いた女の心には物質的の補助ほどありがたいものはないと深く思われるので、自然これを女王《にょおう》に知らせようと努めるのである。若い女房たちは時々来る薫に親しみを持っていて、
「いよいよ姫君がほかの方の所へ行っておしまいになっては、どんなにあの方様が恋しく思召《おぼしめ》すことでしょう」
と同情していた。
薫《かおる》自身は山荘の人の京へ立つのが明日という日の早朝に訪《たず》ねて来た。例の客室にはいっていて、月日が自然に恋人と自分を近づけていき、妻とした大姫君を、今度の中の君のようにして京へ迎えることを、自分のほうが先に期していたのであったと思い、大姫君の生きていたころの様子、話した心を思い出して、絶対に自分を避けようとはせず、もってのほかなどと自分をとがめるようなことはなかったのに、自分の気弱さからついに友情以上のものをあの人にいだかせずに終わったと考えると、胸が痛くさえなるほどに残念であった。父宮の喪中にここから仏間にいるのをのぞいて見た北の襖子《からかみ》の穴も恋しく思い出されて、寄って行って見たが、中の室《へや》は戸が皆おろしてあって暗いために何も見えない。女房も薫の来たことによって昔を思い出して泣いていた。中の君はましてとめどもなく流れる涙のために茫《ぼう》となって横たわっていた。
「伺うことのできませんでした間に、何をどうしたということはありませんが、絶えぬ思いの続きました一端でもお話をいたして心の慰めにさせていただきたいと思います。例のように他人らしくお扱いにならないでください。いよいよ今と昔の相違を深く覚えることになって悲しいでしょうから」
と薫から中の君へ取り次がせてきた。
「失礼だとは思われたくはないけれど、私は今気分も普通でなくて、何だか苦しいのだから、いっそうそんなことで
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